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平成が終わり、令和が始まってしばらく経ちましたが、「ソーシャルシネマ」という視点から平成を振り返ってみようと思いたち、ちょっと調べてみました。

そこでまず出てきたのがこの『ゼイリブ』、公開されたのは1989(平成元)年、平成が始まったまさにその年に公開された映画なのです。

平成の始まりを覚えている方ならわかると思いますが、世は自粛ムード、当時中学生だった私は「自粛」という言葉を初めて聞き、「自粛とか言いながら強制じゃねーか」と中学生らしい悪態を心の中で吐いていたのを思い出します。

それはさておき、平成元年公開のこの映画を十数年ぶりに見返してみると、もちろんSF映画、アクション映画としても面白いんですが、ジョン・カーペンター監督の社会に対する眼差しも描かれていることに気づきました。 自粛ムードの中でこんな映画が公開されていたのかと驚いたし、ある意味、平成という時代を予見する映画でもあったと今は思います。

われわれは搾取されている

主人公のネイダはいわゆる日雇い労働者、ある日、現場を見つけて職にありつく。そして、同じ現場で働いていた男フランクの後をつけ、見つけたスラムにいつくことになります。広場に掘っ立て小屋が並ぶスラムには、様々な人種の貧しい人が暮らし、高層ビルを見上げながら暮らしているのです。

ネイダはそのスラムで「われわれはコントロールされている」と訴える海賊放送を目にし、近くの教会からそれが発せられることに気づきます。そして、それからまもなく、そのスラムは教会もろとも警察に掃討されてしまうのです。

ネイダはその時、教会にゆき、隠されていた大量のサングラスを手に入れます。そのサングラスをかけると、街中のあらゆる看板に「消費せよ」とか「考えるな」という文字だけが表示されるようになり、一部の人の顔がガイコツのように見えるようになります。

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サングラスが真実を暴いていること、つまり多くの人々は幻想を見せられ、コントールされていることに気づいたネダは、 「こんなこったろうと思った!」といって、ガイコツたち(後にエイリアンと判明)をいきなり殺戮をし始めます。

かなりぶっ飛んだ展開ですが、この構造が示すメッセージは単純明快、われわれは消費に駆られることで搾取されているということです。消費することが幸福だと思い込まされ、自分で考えることを放棄させられ、自らをどんどん貧しくしていっているのです。

人種の対立を乗り越え共通の敵と戦う

ネイダは友人となったフランクにもこの現実に目を向けてもらいたいと、サングラスを掛けさせようとします。しかし、フランクはこれを拒否、二人は取っ組み合いの喧嘩を始めます。

この喧嘩がとにかく長いというのが、この映画を伝説的なものにした一つの要素にもなっているのですが、この長さには意味があります。

まず、ネイダは白人でフランクは黒人、当時、建前上は人種差別はなくなったとはいえ人種間対立は根強く残っていました。この長すぎる喧嘩は、人種間対立の根深さを表現すると同時に、理解し合えるということも示していると私は思います。ネイダは今必要なのは共通の敵と戦うことであり、同じ側にいる人々が人種などという意味のない差異を理由にいがみ合っても仕方がないということを肉体で表現しているのではないでしょうか。

この戦いを経てネイダとフランクは協力しあって共通の敵と戦うわけですが、ここで明らかになってくるのがエイリアンの協力者が人間の中にいるという事実です。彼らはエイリアンに支配されている事実を知りながら、それを受け入れ彼らからのおこぼれをもらうことを選んだ人々です。

この構造は、エイリアンという隠喩によって、現代社会を表しているとしか思えません。 30年前はどうだったかわかりませんが、今はまさに勝者のルールに乗らなければ必ず負けてしまう時代、敗者は勝者に尽くすことでそのおこぼれをもらうしかないのです。

ネイダたちが壊そうとしているのは、まさに現実の鏡像であり、この映画が扱っているのは社会問題なのだと言えるのです。そして、今この映画を見ることで、この30年間の社会の変化も見えてきます。

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エイリアンたちはビルの屋上にある電波発生装置で現実の姿を捻じ曲げて、庶民を洗脳し、搾取のシステムを維持しています。なので、ネイダたちはそれを破壊すればよいのです。しかし、現実の社会にはそのようなわかりやすいターゲットはありません。

これは、 30年前の革命と今の革命は違うということを意味しているように思えます。30年前は庶民を支配している金持ちを倒し、平等を実現すれば皆が幸せに暮らせる社会が実現できると信じることができました。でも、今はもはやそんな単純な物語を信じることはできません。今の庶民はより複雑なシステムに絡み取られ、搾取され続けているのです。

不自由である現実を受け入れたほうが、自由を希求するよりも生きやすい世界、それが今の現実なのです。

この映画は今から見ると単純な物語ではありますが、結末まで見ると、単純なハッピーエンドでは決してなく、この物語の先に明るい未来があるかどうかは判然としません。

私は、それはジョン・カーペンターはこの時点ですでに、こんなわかりやすい敵などもう世の中にはいないということをわかっていて、それを私たちに伝えようとしているのではないかと思いました。

『ゼイリブ』
They Live
1988年/アメリカ/94分
監督:ジョン・カーペンター
原作:レイ・ネルソン
脚本:フランク・アーミテージ
撮影:ゲイリー・B・キャップ
音楽:ジョン・カーペンター、アラン・ハワース
出演:ロディ・パイパー、キース・デヴィッド、メグ・フォスター

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©1988 StudioCanal. All Rights Reserved. 平成が終わり、令和が始まってしばらく経ちましたが、「ソーシャルシネマ」という視点から平成を振り返ってみようと思いたち、ちょっと調べてみました。 そこでまず出てきたのがこの『ゼイリブ』、公開されたのは1989(平成元)年、平成が始まったまさにその年に公開された映画なのです。 平成の始まりを覚えている方ならわかると思いますが、世は自粛ムード、当時中学生だった私は「自粛」という言葉を初めて聞き、「自粛とか言いながら強制じゃねーか」と中学生らしい悪態を心の中で吐いていたのを思い出します。 それはさておき、平成元年公開のこの映画を十数年ぶりに見返してみると、もちろんSF映画、アクション映画としても面白いんですが、ジョン・カーペンター監督の社会に対する眼差しも描かれていることに気づきました。 自粛ムードの中でこんな映画が公開されていたのかと驚いたし、ある意味、平成という時代を予見する映画でもあったと今は思います。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || ).push({});
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