ドラマの「おっさんずラブ」が人気だったそうで、少し前には把瑠都さんが主演の「弟の夫」も話題になっていたし、昨今のLGBTへの意識喚起を受けて、いよいよゲイもののドラマは市民権を得てきたのかなという感じはしますね。「おっさんずラブ」もちらっと見たのですが、一昔前の”おかま”を笑うようなものではなく、ゲイの恋愛をある種純愛として描きながら、それがおじさんだというところにおかしみを求めるという感じなのかなぁと感じました。

おじさんを主人公にして恋愛を描こうとするとき、それが異性愛だと不倫とかセクハラとかどろどろしたものになってしまいがちなので、若いイケメンが相手の同性愛のほうがむしろ爽やかに描けるというのが昨今の状況なのかもしれません。「弟の夫」はちょっと違いますが。

さて、それならおっさんが主役のゲイもののコメディ映画を掘り起こして紹介しようかなと思っていろいろ掘っていたところ、その文脈とはちょっと違うけどかなりの名作と言える『メゾン・ド・ヒミコ』に行き当たってしまったので、今日はこの作品を取り上げたいと思います。

ゲイの老人ホームは居心地が良い?

1980年代、銀座の伝説的なゲイバー“ヒミコ”のママであったヒミコはバーをたたんでゲイのための老人ホーム“メゾン・ド・ヒミコ”を作った。しかし、そのヒミコも病に倒れ余命わずかとなる。ヒミコの恋人の岸本は、ヒミコの娘の沙織にメゾン・ド・ヒミコでアルバイトしないかと持ちかける。ヒミコとは十年以上会っておらず強く反発する沙織は拒否していたが、お金に困っていたため一度行ってみることにする。

沙織は定期的にメゾン・ド・ヒミコで働くようになり、他の住人たちとも打ち解けていく。しかし、彼女は時折、彼らの行動に引っかかり、突っかかっていく。そこには彼女がずっと抱えてきたヒミコに捨てられたという思いがある。妻子を捨てて”オカマ”になった父親、ゲイというのはそういう自分勝手なやつらの集まりだという思いをずっと抱えているのだ(実際映画の終盤でそのことを面と向かって彼らにぶつける)。

対して、ゲイの老人たちは、互いのキズを舐めあい穏やかに老後を過ごそうと考えてここに集まっている。彼らは偏見の中を生きてきたし、今も差別をぶつけられる存在である。この映画では社会による差別の象徴として壁に落書きをしたりものを投げつけてきたりする中学生が登場する。無垢さと残酷さを併せ持つ中学生は社会が彼らに向けている視線を象徴するのにはちょうどいい存在だ。ゲイたちは彼らと戦わない。いたずらをしてくれば怒るし対抗もするけれど、彼らの偏見が拭われるように努力をすることはない。それは長年偏見にさらされてきたことからくる諦めかもしれないし、あるいはそのような存在である自分自身を哀れんでいたいことの無意識の表れであるかもしれないが、とにかく彼らは社会を変えようと行動を起こすことはないのだ。

沙織はというと、ゲイに対する偏見を見せることはない。父親に対する怒りは激しいし、ゲイたちの行動に反発はするけれど、それは彼らのセクシャリティとは関係なく、人間として彼らを評価した上で「こういうところがダメだ」と告げる。だからゲイだからという理由で拒絶することはなく、馬が合えば仲良くもなる。

© 2005 「メゾン・ド・ヒミコ」製作委員会

ダンスホールと社会

沙織がメゾン・ド・ヒミコで過ごす中で一番仲良くなるのが山崎だが、彼は自分が本当に着たい服を部屋の中に隠し持ち仲間にすら見せずに、生きたい人生を我慢して生き続けてきた。沙織はそんな山崎に自分もバニーの衣装は着られないと言われたと告げ、2人で本当は着たいのに着られない服を着て遊ぶ。そして盛り上がった結果、山崎ははじめて女装で外出する。2人は他のゲイの老人たちとともにクラブ?ディスコ?に向かうが、このシーンは本当に素晴らしい。世の中の人々の偏見と、それに対する沙織の怒り、その偏見を受け続けてきたゲイたちの反応、そのゲイとゲイではない人々とそして沙織の関係を見事に描き出す。このシーンでもつれ合う感情を解きほぐして行くと、そこには本当にいろいろなものが混ざり合っていることがわかる。そして楽しい。

このシーンでは山崎の元部下の偏見に凝り固まったおっさんが登場するのだが、これは近所の中学生に続いて世間の目を象徴的に示す人物だ。中学生と違って染み込んでしまった偏見は溶解することはないのだが、続くダンスのシーンでダンスホールの人たちは偏見なくゲイのおじさんたちとも踊っている。もちろんおっさんはこの和には加わっていないわけだが、それこそがまさに今の社会を象徴的に示しているように思えた。

というのも、社会(ここではダンスホール)をおじさんは上から見下ろしていて、彼は自分はあんな奴らとは違うと思っているわけだが、実際のところ彼こそが社会から阻害されている。そして、彼を社会から阻害するのは彼自信の偏見であり、彼のような人間の居場所は社会からどんどんなくなっていくはずだ(なくなっていって欲しい)。人を区別することなく一緒に踊る人生と、酒を飲んで人を笑い者にする人生、どっちが楽しい?

ゲイの父親に捨てられた娘に偏見がない理由

この映画は、沙織がメゾン・ド・ヒミコの中に入って、ゲイの世界と外の世界のふたつをつなぐことによって成り立っている。ただ、それを可能にするのは、沙織がゲイの父親に捨てられたにもかかわらずゲイへの偏見を持たない事によってだ。なぜそうなったのかを考えると、そこに母親の存在が見出される。

沙織の母親は数年前に亡くなったということだが、沙織はメゾン・ド・ヒミコで母親が写った写真を見つける。最終的に、それは母親とヒミコが時々会っていたことを意味していたとわかるのだが、それが意味するのは、沙織の母親はヒミコを恨んでおらず、自分を捨ててゲイに走ったことについて恨んでもいないということだ。他の入居者にも言えることだが、ゲイであることを隠して女性と結婚して子供をもうけるということを求めてきた「社会」の一員であったことで逆に申し訳ない気持ちであったのかもしれない。だから沙織はゲイに対する偏見を植え付けられることはなかった。

第三者から見ると妻子を捨ててゲイに走るなんてひどいやつだと思いがちだけれど、当事者からしてみればそこにあるのは人と人との関係であり、どちらが悪いというのは当事者にしかわからないことだ。そこにはゲイであるとかないとかいうことは関係なく、人としてどうかということだけが関わってくるはずだということが偏見があると理解できない。だからこそ偏見なのだけれど。

© 2005 「メゾン・ド・ヒミコ」製作委員会

沙織の場合は偏見なく育てられたわけだが、偏見がある場合も、人と人として直接対峙すれば、その偏見はなくなる可能性がある。

それを示すのが、映画の終盤で、中学生の一人が岸本に「今度やったら殺すぞ」と凄まれ、その後にメゾン・ド・ヒミコに手伝いにやってくるというエピソードがある。もしかしたら彼も岸本という一人の人間と対峙することで、「オカマ」という漠然とした人たちに対して持っていた偏見に楔を打ち込まれたのかもしれない。

それですべての偏見や差別がなくなるわけではないけれど、人に対する偏見というのは本来は存在しないフィルターを通して相手を見ているようなものだから、距離が近づいてそのフィルターが破られれば多くの場合偏見はなくなる。そんな事を考えさせられた。

そう考えると、この映画は十数年前の映画だが、その当時と今を比べるとやはりLGBTへの偏見は薄れてきているようには思える。それは、「オカマ」とか「ニューハーフ」とか「おなべ」とかをテレビを通して見ることしかなかった時代から、多様なLGBTの姿が多様なメディアを通じて伝わる時代になったからだろう。もちろん直接LGBTの人たちと触れる機会も増えただろうし。

差別や偏見については度々考えて書いてきたけれど、究極的に必要なのは”ダンスホールの体験”で、自分で直接、差別や偏見の理由が存在しないことを実感しなければ差別意識を完全に拭い去ることは不可能なのかもしれない。沙織のようにそもそも偏見を抱かずに生きてきたのでない限り、それが必要になってくる。もちろん意識や想像力である程度までは偏見を持たないスタンスにたつことはできるのだけれど、意識の深い部分から偏見をなくすには直接的な体験が必要なんだろうと思ってしまった。

そう言ってしまうと、映画やメディアにできることはないようにも思えるが、行動のきっかけくらいにはなるんじゃないだろうか。

『メゾン・ド・ヒミコ』
2005年/日本/131分
監督:犬童一心
脚本:渡部あや
撮影:蔦井孝洋
音楽:細野晴臣
出演:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、西島秀俊、青山吉良、

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http://socine.info/wp-content/uploads/2018/06/maisonhimiko_1.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2018/06/maisonhimiko_1-300x300.jpgishimuraMovieLGBT,ゲイ,ドラマ,多様性
ドラマの「おっさんずラブ」が人気だったそうで、少し前には把瑠都さんが主演の「弟の夫」も話題になっていたし、昨今のLGBTへの意識喚起を受けて、いよいよゲイもののドラマは市民権を得てきたのかなという感じはしますね。「おっさんずラブ」もちらっと見たのですが、一昔前の”おかま”を笑うようなものではなく、ゲイの恋愛をある種純愛として描きながら、それがおじさんだというところにおかしみを求めるという感じなのかなぁと感じました。 おじさんを主人公にして恋愛を描こうとするとき、それが異性愛だと不倫とかセクハラとかどろどろしたものになってしまいがちなので、若いイケメンが相手の同性愛のほうがむしろ爽やかに描けるというのが昨今の状況なのかもしれません。「弟の夫」はちょっと違いますが。 さて、それならおっさんが主役のゲイもののコメディ映画を掘り起こして紹介しようかなと思っていろいろ掘っていたところ、その文脈とはちょっと違うけどかなりの名作と言える『メゾン・ド・ヒミコ』に行き当たってしまったので、今日はこの作品を取り上げたいと思います。 ゲイの老人ホームは居心地が良い? 1980年代、銀座の伝説的なゲイバー“ヒミコ”のママであったヒミコはバーをたたんでゲイのための老人ホーム“メゾン・ド・ヒミコ”を作った。しかし、そのヒミコも病に倒れ余命わずかとなる。ヒミコの恋人の岸本は、ヒミコの娘の沙織にメゾン・ド・ヒミコでアルバイトしないかと持ちかける。ヒミコとは十年以上会っておらず強く反発する沙織は拒否していたが、お金に困っていたため一度行ってみることにする。 沙織は定期的にメゾン・ド・ヒミコで働くようになり、他の住人たちとも打ち解けていく。しかし、彼女は時折、彼らの行動に引っかかり、突っかかっていく。そこには彼女がずっと抱えてきたヒミコに捨てられたという思いがある。妻子を捨てて”オカマ”になった父親、ゲイというのはそういう自分勝手なやつらの集まりだという思いをずっと抱えているのだ(実際映画の終盤でそのことを面と向かって彼らにぶつける)。 対して、ゲイの老人たちは、互いのキズを舐めあい穏やかに老後を過ごそうと考えてここに集まっている。彼らは偏見の中を生きてきたし、今も差別をぶつけられる存在である。この映画では社会による差別の象徴として壁に落書きをしたりものを投げつけてきたりする中学生が登場する。無垢さと残酷さを併せ持つ中学生は社会が彼らに向けている視線を象徴するのにはちょうどいい存在だ。ゲイたちは彼らと戦わない。いたずらをしてくれば怒るし対抗もするけれど、彼らの偏見が拭われるように努力をすることはない。それは長年偏見にさらされてきたことからくる諦めかもしれないし、あるいはそのような存在である自分自身を哀れんでいたいことの無意識の表れであるかもしれないが、とにかく彼らは社会を変えようと行動を起こすことはないのだ。 沙織はというと、ゲイに対する偏見を見せることはない。父親に対する怒りは激しいし、ゲイたちの行動に反発はするけれど、それは彼らのセクシャリティとは関係なく、人間として彼らを評価した上で「こういうところがダメだ」と告げる。だからゲイだからという理由で拒絶することはなく、馬が合えば仲良くもなる。 ダンスホールと社会 沙織がメゾン・ド・ヒミコで過ごす中で一番仲良くなるのが山崎だが、彼は自分が本当に着たい服を部屋の中に隠し持ち仲間にすら見せずに、生きたい人生を我慢して生き続けてきた。沙織はそんな山崎に自分もバニーの衣装は着られないと言われたと告げ、2人で本当は着たいのに着られない服を着て遊ぶ。そして盛り上がった結果、山崎ははじめて女装で外出する。2人は他のゲイの老人たちとともにクラブ?ディスコ?に向かうが、このシーンは本当に素晴らしい。世の中の人々の偏見と、それに対する沙織の怒り、その偏見を受け続けてきたゲイたちの反応、そのゲイとゲイではない人々とそして沙織の関係を見事に描き出す。このシーンでもつれ合う感情を解きほぐして行くと、そこには本当にいろいろなものが混ざり合っていることがわかる。そして楽しい。 このシーンでは山崎の元部下の偏見に凝り固まったおっさんが登場するのだが、これは近所の中学生に続いて世間の目を象徴的に示す人物だ。中学生と違って染み込んでしまった偏見は溶解することはないのだが、続くダンスのシーンでダンスホールの人たちは偏見なくゲイのおじさんたちとも踊っている。もちろんおっさんはこの和には加わっていないわけだが、それこそがまさに今の社会を象徴的に示しているように思えた。 というのも、社会(ここではダンスホール)をおじさんは上から見下ろしていて、彼は自分はあんな奴らとは違うと思っているわけだが、実際のところ彼こそが社会から阻害されている。そして、彼を社会から阻害するのは彼自信の偏見であり、彼のような人間の居場所は社会からどんどんなくなっていくはずだ(なくなっていって欲しい)。人を区別することなく一緒に踊る人生と、酒を飲んで人を笑い者にする人生、どっちが楽しい? ゲイの父親に捨てられた娘に偏見がない理由 この映画は、沙織がメゾン・ド・ヒミコの中に入って、ゲイの世界と外の世界のふたつをつなぐことによって成り立っている。ただ、それを可能にするのは、沙織がゲイの父親に捨てられたにもかかわらずゲイへの偏見を持たない事によってだ。なぜそうなったのかを考えると、そこに母親の存在が見出される。 沙織の母親は数年前に亡くなったということだが、沙織はメゾン・ド・ヒミコで母親が写った写真を見つける。最終的に、それは母親とヒミコが時々会っていたことを意味していたとわかるのだが、それが意味するのは、沙織の母親はヒミコを恨んでおらず、自分を捨ててゲイに走ったことについて恨んでもいないということだ。他の入居者にも言えることだが、ゲイであることを隠して女性と結婚して子供をもうけるということを求めてきた「社会」の一員であったことで逆に申し訳ない気持ちであったのかもしれない。だから沙織はゲイに対する偏見を植え付けられることはなかった。 第三者から見ると妻子を捨ててゲイに走るなんてひどいやつだと思いがちだけれど、当事者からしてみればそこにあるのは人と人との関係であり、どちらが悪いというのは当事者にしかわからないことだ。そこにはゲイであるとかないとかいうことは関係なく、人としてどうかということだけが関わってくるはずだということが偏見があると理解できない。だからこそ偏見なのだけれど。 沙織の場合は偏見なく育てられたわけだが、偏見がある場合も、人と人として直接対峙すれば、その偏見はなくなる可能性がある。 それを示すのが、映画の終盤で、中学生の一人が岸本に「今度やったら殺すぞ」と凄まれ、その後にメゾン・ド・ヒミコに手伝いにやってくるというエピソードがある。もしかしたら彼も岸本という一人の人間と対峙することで、「オカマ」という漠然とした人たちに対して持っていた偏見に楔を打ち込まれたのかもしれない。 それですべての偏見や差別がなくなるわけではないけれど、人に対する偏見というのは本来は存在しないフィルターを通して相手を見ているようなものだから、距離が近づいてそのフィルターが破られれば多くの場合偏見はなくなる。そんな事を考えさせられた。 そう考えると、この映画は十数年前の映画だが、その当時と今を比べるとやはりLGBTへの偏見は薄れてきているようには思える。それは、「オカマ」とか「ニューハーフ」とか「おなべ」とかをテレビを通して見ることしかなかった時代から、多様なLGBTの姿が多様なメディアを通じて伝わる時代になったからだろう。もちろん直接LGBTの人たちと触れる機会も増えただろうし。 差別や偏見については度々考えて書いてきたけれど、究極的に必要なのは”ダンスホールの体験”で、自分で直接、差別や偏見の理由が存在しないことを実感しなければ差別意識を完全に拭い去ることは不可能なのかもしれない。沙織のようにそもそも偏見を抱かずに生きてきたのでない限り、それが必要になってくる。もちろん意識や想像力である程度までは偏見を持たないスタンスにたつことはできるのだけれど、意識の深い部分から偏見をなくすには直接的な体験が必要なんだろうと思ってしまった。 そう言ってしまうと、映画やメディアにできることはないようにも思えるが、行動のきっかけくらいにはなるんじゃないだろうか。 『メゾン・ド・ヒミコ』 2005年/日本/131分 監督:犬童一心 脚本:渡部あや 撮影:蔦井孝洋 音楽:細野晴臣 出演:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、西島秀俊、青山吉良、 このブログの電子書籍版を作りました!
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