uplink cloudでパレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドの2作品を無料公開しているとのことで、先日『オマールの壁』を観ましたが、もう1本の『パラダイス・ナウ』も観ることにしました。この作品は以前(調べたら2008年でした)観ていて、面白かった記憶があるものの内容はあまり覚えていなかったのです。

今回は、改めて作品を観て10年前のレビューも読み返しながら、この10年で何が変わって何が変わらないのかを考えてみたいと思います。

テロリストはいかに生まれるか

映画の主人公は、ヨルダン川西岸地区の車の修理工場で働く二人の若者サイードとハーレド、ある夜、ふたりはイスラエルのテルアビブでの自爆テロの実行者に選ばれる。以前からそれを望んでいた2人は、受け入れて翌日テロを実行することを決めるのだが、決心を決めているハーレドに対してサイードは僅かな迷いを覗かせる。

この映画はフィクションなので、どこまで現実に即しているかはわからないが、パレスチナ人である監督が自身の肌で感じた現実を反映させていることは間違いないだろう。テロと言うと、ISやハマスのような大きな組織がテロリストを教育して送り出しているような印象があるが、この2人はごくごく普通の若者で、テロリストとして特別な教育を受けたわけではなさそうだ。それでもためらいなくテロリストになれるというのが、このパレスチナのヨルダン川西岸地区の特殊性なのだろうなと観ながら思った。

イスラエルが建国されて今年で70年、それはつまりパレスチナの人々が土地を奪われてから70年ということでもある。しかもその70年の間にイスラエル人はさらに入植を進め、パレスチナの土地を奪い、2002年には隔離壁を作り、パレスチナ人を閉じ込めてきた。映画の中でもサイードはヨルダン川西岸から出たことは一度しかないといい、「ここで生きるのは牢獄で生きるのと同じ」というようなことを言う。

この閉塞感と貧しさが彼らをテロに駆り立てることは間違いないだろう。パレスチナの風景と、彼らが訪れるテルアビブの風景はあまりに違う。道も舗装されておらず砂煙にまみれたパレスチナと、高層ビルが立ち並ぶテルアビブ、もとは自分たちのものだった土地に自分たちには手の届かない富が存在するというのはどのような思いなのだろうか。

恋するテロリスト

テロの実行者に選ばれたと告げられたその日、サイードは修理工場のお客さんとしてやってきたヨーロッパ育ちで英雄の娘だというスーハに出逢う。そして、テロの決行が決まり、明日車を取りに来るスーハに渡せなくなってしまった鍵を夜中にサイードは届けに行く。2人は惹かれ合い、視線を交わし、スーハはサイードを招き入れるが当たり障りの無い話をして二人は別れてしまう。

翌日のテロ実行の日、サードはためらう気持ちをハーレドにそれとなく告げる。実行に迷いがあると言うよりは、やることの意味を問い直しているように見える。本当にこの行為は国のため、人々のためになるのか、それを考えているようなのだ。

2人はテルアビブへと向かうがイスラエル兵に見つかったのかはぐれてしまい、ハーレドが先にパレスチナに戻りサイードを探し始める。その過程でハーレドはスーハと会って一緒にサイードを探すことになるのだが、その中でスーハは自爆テロに疑義を投げかける。彼女は自爆テロは復讐に過ぎず、相手に復習する口実を与えているに過ぎないというのだ。それは客観的に見れば事実だろうが、そう考えられるのはスーハが長く外国で過ごしてきたからだ。そうではないサイードやハーレドがその様に考えられるようになるのは難しいのではないだろうか。

そう考えると、テロリストを生み出す素となっているのは、世界の狭さであるのではないかと思う。同じような価値観を持った人たちだけがいる中で、自分たちを迫害する人々に対する敵意をみなぎらせ、他の考えは受け入れられなくなってしまう。外の世界に目を広げれば他の方法にも考えを巡らすことができるだろうに、閉じ込められた彼らにはそれができない。そうならば、テロをやめさせるために必要なのは空爆をしたり圧力をかけ続けることではなく、彼らの世界を開くことではないのか。

サイードのためらいが生まれたのは、スーハという異なる視点を持った人物が身近に現れたからだと考えると、そういうことになる。

恋はテロを止めることができると言ってしまうといいすぎだとは思うが、恋をしたら相手のことを理解したいと思うのが人間で、その相手のことを理解したいという思いがその人の世界を広げる。それはもちろん恋ではなく、家族愛でも友情でも何でもいいのだが、恋というのが一番鮮烈に他者を理解したいという思いを抱かせるものではないか。

10年前に書いた文章を読んでみたら「重要なのは二元論自体を壊すこと」と書いていた。イスラエル人/パレスティナ人、入植者/被入植者、加害者/被害者という二元論が対立を生むが、映画の中でサイードが「イスラエルもパレスチナ元もの加害者であり同時に被害者である」というように、その二元論はそれほど明確なものではないということだ。

にもかかわらず、対立がやまないのは人々がその二元論を乗り越えられないということで、それがさっき書いたような世界の狭さということ。10年ぶりに映画を観て見えた風景は違ったけれど、思うところは同じで、それだけ世界は相変わらず狭量だということだ。

アラブの春

映画についてはここまでなのですが、この10年の間に中東で起きた大きなことと言えば、アラブの春があります。あれも若者たちが起こした行動で、しかもSNSがそのきっかけを作ったのだから、他者とのコミュニケーションが何かを変えたということも言えそうで、今回考えたことと通じる何かがあるような気がいましています。アラブの春とその後のシリアを描いた『それでも僕は帰る ~シリア 若者たちが求め続けたふるさと~』という作品があって、非常に強烈な作品だったのですが、それを考え合わせてみると、なにか見えてくるのではないかという予感があります。

パレスチナやアラブの問題は遠くの世界の話ではありますが、地球人としてすべての人が考えなければいけない問題だと私は思っています。たくさんの映画を観始めるようになった20年くらい前に出会ったイラン映画を始めとして、結構な数の西アジアの映画を観てきましたが、その文化の豊穣さや人々の考えの深さにはいつも感心させられます。そのような人々が戦火の中で自分らしく生きることができないというのは世界にとってものすごい損失だと思うのです。

なので、もうちょっとこの辺の映画についての考察を深めて、考えをまとめていけたらいいなと思っています。

『パラダイス・ナウ』
Paradise Now
2005年/フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ/90分
監督・脚本:ハニ・アブ・アサド
脚本:ベロ・ベイヤー、ピエール・ハドソン
撮影:アントワーヌ・エベール
音楽:ジーナ・スメディ
出演:カイス・ナシェフ、アリ・スリマン、ルブナ・アザバル、ヒアム・アッバス

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