©東海テレビ放送

東海テレビのドキュメンタリーはこれまでいくつも紹介してきましたが、色々な試みの一つとして、今回まとめて電子書籍にしてみることにしました。内容はここに載せているのとほとんど変わらないので、多少読みやすくなった以外の意味はないのですが、こちらの記事でも書いたように、ある種の投げ銭という意味もあるので、300円くらいなら払ってもいいよと思ったら買ってみてください。スマホでも読みやすくはなっていると思います。Kindle Unlimitedにも登録されているので、そちらをご利用の方は無料で読めます。

これもある種の実験なので、ちょっと様子を見て、電子書籍を作ってみた感想をまたブログに書きたいと思います。

今回は5本分収めましたが、10作品の中でまだ観ていないものもあったので、それを観てこちらに載せて、状況を見て残りもまとめようかなぁという感じです。

というわけで今日は『ふたりの死刑囚』です。

死刑判決が確定しながら、冤罪を訴え再審請求を繰り返している「ふたりの死刑囚」が主人公のドキュメンタリー。死刑制度についてを超えてこの国の司法制度について考えさせられてしまいました。

死刑囚でいるということ

一人目の死刑囚は袴田巌さん、冤罪事件として有名な「袴田事件」の容疑者で、2014年に再審が認められ、釈放された。この作品は釈放された直後から袴田さんを追い、その後約1年の袴田さんの変化を描いている。

©東海テレビ放送

ここでまず印象的なのが釈放直後、袴田さんが家から一歩も出ず、家の中の同じ場所を行ったり来たりしているという場面だ。袴田さんは「独房でもそうしていた」らしく、同じところを行ったり来たりしている。袴田さんが拘留されていたのは約47年、30歳から77歳までを独房で過ごしていたのだ。同じ場所を行ったり来たりしながら、いつ死刑が執行されるかと怯えながら。その状況というのは想像しようとしてもなかなか想像できない。一体どういう気持になるのか、希望は持てるのか、時間の感覚は保てるのか、ただただ老いていく自分をどう思うのか。

釈放から数ヶ月して袴田さんは外に出歩けるようになり、呼ばれて話をしたりするようになり、表情はどんどん柔らかくなっていくのだが、話していることはよくわからない。よくわからないというより文章として成り立っていなかったり、何のことを話しているのかわからなかったり、とにかく意味が取れない。袴田さんの頭の中では何が起きているのか。

映画ではこれらの袴田さんの症状?を「拘禁反応」として説明している。拘束されたことによって生じるさまざまな変化のことだ。それを見ていると、なんとも言えない気分になる。冤罪がどうとかいう以前に、このような症状をきたす状態に人間を置くことの意味を考えずにはいられない。死刑囚は執行までの間、刑務所ではなく拘置所で過ごす。刑務所は刑を務める場所であるので、刑を務めない死刑囚は入れないのだ。拘置所と刑務所の詳しい違いはわからないが、拘置所というのは裁判の際などに被告人を一時留め置く場所のはずで、長期間囚えておく前提の場所ではないはずだ。そのような場所に45年以上いるというのは、本当に想像ができない。

袴田さんの場合、再審請求が出され続けたことによって死刑が執行されなかったとも考えられるわけだが、それでなくても一般的に死刑の確定から執行まで10年近く拘置所に留め置かれることも多いと言う。そうなると、死刑という刑罰の意味とは何なのか、『死刑弁護人』のときも考えたが、改めて考えさせられてもしまう。しかし、この映画はそこはあまり深掘りせずに、別の問題へと話を展開していく。それがもうひとりの死刑囚の話だ。

裁判と検察と証拠

もうひとりの死刑囚は奥西勝さん、1961年の名張毒ぶどう酒事件の犯人とされ、死刑が確定したが、証拠に疑問があるなどの理由で再審請求が繰り返される。こちらの奥西さんは本人は登場せず、主に支援者たちの姿が映される。奥西さん自身は2012年に肺炎を患って八王子医療刑務所に移送され寝たきりの生活を送るようになる。

©東海テレビ放送

奥西さんの場合は、再審請求が認められておらず、もう残された時間が少ない中でなぜ再審が認められないのかという点に焦点が当てられる。支援者たちは次々と証拠の矛盾を訴え、再審請求を繰り返す。証拠とされた王冠の歯型が奥西さんのものとは違うとか、そもそも現場ではもっと多くの王冠が見つかったはずなのに証拠として提出されていないとか、様々な矛盾が上げられる。

もちろんこれらは奥西さん側からの見方ではあるのだけれど、それだけの矛盾があるのなら再審はしてもいいのではないかという疑問は生じる。疑わしきは罰せずが司法の原則とするならば、疑わしいことは間違いないのだから。

そして、その中で強調されるのは、証拠の扱いだ。裁判というと様々な証拠を裁判官が客観的にみて有罪か無罪かを判断するものという印象だが、現在の日本の司法制度では、裁判所に提出する証拠は検察が好きに選んでいいということになっているらしい。そして、弁護側は出された証拠以外にどんな証拠があるのかも知らされず、自分たちで証拠を集めようにも、最初に現場を操作するのは警察だから、集めようがないという。

もちろん検察にも公正さが求められているわけだが、「有罪にする側」の検察がわざわざ自分たちが不利になるような証拠を提出するだろうか?というのが最大の疑問だ。実際に元検察官という弁護士は、自分たちに不利な証拠は提出しないように教育されたと証言する。

もちろん大部分は、有罪を立証するに足る証拠があり、そこにわざわざ小さな疑問を生むようなものを混ぜる必要はないということなのだろうが、それが行き過ぎると、有罪を疑うに足る証拠までも裁判所に提出されないことになってしまわないだろうか。そんな大きな疑問符をこの映画は見るものに植え付ける。

社会の犠牲者に対して何ができるか

ある意味、司法制度という社会の仕組みの犠牲者といえる2人の運命はもちろん悲惨なものだが、その2人を支える人たちにも大きな負担がのしかかる。一番近くで支える袴田さんの姉と奥西さんの妹はもちろんだが、支援者たちも自分たちの時間やお金を費やしている。奥西さんの場合、もし亡くなってしまった場合にも再審請求が続けられるよう、支援者の1人が養子となってまで支援を続ける。

©東海テレビ放送

支援者たちの活動には頭が下がる。彼らはある意味、(本当に冤罪であるとすれば)社会の犠牲者である袴田さんと奥西さんとその家族に対して社会を代表して贖罪を行っているのではないか。

この映画を観て、私は司法制度への憤りは覚えたが、それを自分に引きつけることがなかなかできなかった。それは自分自身が彼らの犠牲を強いている社会の側にいるからかも知れないと、この文章を書きながら思った。再審請求を却下し続ける裁判所に疑問は抱くけれど、どこかでそれを受け入れてしまっている自分もいる。正直なところそんなことを思った。それは自分は社会の犠牲者になりたくないという気持ちの現われでもあるかもしれない。

じゃあ自分はどうしたいのか。綺麗事かも知れないが、これから日本に司法制度が良くなっていき、社会の犠牲になる人が減っていくためにできることは何かを考えるしかないのではないか。直接彼らを支援する勇気も行動力もないけれど、別の形で彼らに報えればいい、そんなことを思ったのは、この映画を作った人たちもそんな思いがあったからかも知れない。

本当にドキュメンタリー映画からはたくさんのことを学ぶことができる。勇気も行動力もない私にできることは学び、伝えることくらいだ。

『ふたりの死刑囚』
2015年/日本/85分
監督:鎌田麗香
撮影:坂井洋紀
音楽:本多俊之
ナレーション:仲代達矢

http://socine.info/wp-content/uploads/2018/05/2drs_1.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2018/05/2drs_1-300x300.jpgishimuraMovieドキュメンタリー,冤罪,司法制度,東海テレビ放送,死刑
東海テレビのドキュメンタリーはこれまでいくつも紹介してきましたが、色々な試みの一つとして、今回まとめて電子書籍にしてみることにしました。内容はここに載せているのとほとんど変わらないので、多少読みやすくなった以外の意味はないのですが、こちらの記事でも書いたように、ある種の投げ銭という意味もあるので、300円くらいなら払ってもいいよと思ったら買ってみてください。スマホでも読みやすくはなっていると思います。Kindle Unlimitedにも登録されているので、そちらをご利用の方は無料で読めます。 これもある種の実験なので、ちょっと様子を見て、電子書籍を作ってみた感想をまたブログに書きたいと思います。 今回は5本分収めましたが、10作品の中でまだ観ていないものもあったので、それを観てこちらに載せて、状況を見て残りもまとめようかなぁという感じです。 というわけで今日は『ふたりの死刑囚』です。 死刑判決が確定しながら、冤罪を訴え再審請求を繰り返している「ふたりの死刑囚」が主人公のドキュメンタリー。死刑制度についてを超えてこの国の司法制度について考えさせられてしまいました。 死刑囚でいるということ 一人目の死刑囚は袴田巌さん、冤罪事件として有名な「袴田事件」の容疑者で、2014年に再審が認められ、釈放された。この作品は釈放された直後から袴田さんを追い、その後約1年の袴田さんの変化を描いている。 ここでまず印象的なのが釈放直後、袴田さんが家から一歩も出ず、家の中の同じ場所を行ったり来たりしているという場面だ。袴田さんは「独房でもそうしていた」らしく、同じところを行ったり来たりしている。袴田さんが拘留されていたのは約47年、30歳から77歳までを独房で過ごしていたのだ。同じ場所を行ったり来たりしながら、いつ死刑が執行されるかと怯えながら。その状況というのは想像しようとしてもなかなか想像できない。一体どういう気持になるのか、希望は持てるのか、時間の感覚は保てるのか、ただただ老いていく自分をどう思うのか。 釈放から数ヶ月して袴田さんは外に出歩けるようになり、呼ばれて話をしたりするようになり、表情はどんどん柔らかくなっていくのだが、話していることはよくわからない。よくわからないというより文章として成り立っていなかったり、何のことを話しているのかわからなかったり、とにかく意味が取れない。袴田さんの頭の中では何が起きているのか。 映画ではこれらの袴田さんの症状?を「拘禁反応」として説明している。拘束されたことによって生じるさまざまな変化のことだ。それを見ていると、なんとも言えない気分になる。冤罪がどうとかいう以前に、このような症状をきたす状態に人間を置くことの意味を考えずにはいられない。死刑囚は執行までの間、刑務所ではなく拘置所で過ごす。刑務所は刑を務める場所であるので、刑を務めない死刑囚は入れないのだ。拘置所と刑務所の詳しい違いはわからないが、拘置所というのは裁判の際などに被告人を一時留め置く場所のはずで、長期間囚えておく前提の場所ではないはずだ。そのような場所に45年以上いるというのは、本当に想像ができない。 袴田さんの場合、再審請求が出され続けたことによって死刑が執行されなかったとも考えられるわけだが、それでなくても一般的に死刑の確定から執行まで10年近く拘置所に留め置かれることも多いと言う。そうなると、死刑という刑罰の意味とは何なのか、『死刑弁護人』のときも考えたが、改めて考えさせられてもしまう。しかし、この映画はそこはあまり深掘りせずに、別の問題へと話を展開していく。それがもうひとりの死刑囚の話だ。 裁判と検察と証拠 もうひとりの死刑囚は奥西勝さん、1961年の名張毒ぶどう酒事件の犯人とされ、死刑が確定したが、証拠に疑問があるなどの理由で再審請求が繰り返される。こちらの奥西さんは本人は登場せず、主に支援者たちの姿が映される。奥西さん自身は2012年に肺炎を患って八王子医療刑務所に移送され寝たきりの生活を送るようになる。 奥西さんの場合は、再審請求が認められておらず、もう残された時間が少ない中でなぜ再審が認められないのかという点に焦点が当てられる。支援者たちは次々と証拠の矛盾を訴え、再審請求を繰り返す。証拠とされた王冠の歯型が奥西さんのものとは違うとか、そもそも現場ではもっと多くの王冠が見つかったはずなのに証拠として提出されていないとか、様々な矛盾が上げられる。 もちろんこれらは奥西さん側からの見方ではあるのだけれど、それだけの矛盾があるのなら再審はしてもいいのではないかという疑問は生じる。疑わしきは罰せずが司法の原則とするならば、疑わしいことは間違いないのだから。 そして、その中で強調されるのは、証拠の扱いだ。裁判というと様々な証拠を裁判官が客観的にみて有罪か無罪かを判断するものという印象だが、現在の日本の司法制度では、裁判所に提出する証拠は検察が好きに選んでいいということになっているらしい。そして、弁護側は出された証拠以外にどんな証拠があるのかも知らされず、自分たちで証拠を集めようにも、最初に現場を操作するのは警察だから、集めようがないという。 もちろん検察にも公正さが求められているわけだが、「有罪にする側」の検察がわざわざ自分たちが不利になるような証拠を提出するだろうか?というのが最大の疑問だ。実際に元検察官という弁護士は、自分たちに不利な証拠は提出しないように教育されたと証言する。 もちろん大部分は、有罪を立証するに足る証拠があり、そこにわざわざ小さな疑問を生むようなものを混ぜる必要はないということなのだろうが、それが行き過ぎると、有罪を疑うに足る証拠までも裁判所に提出されないことになってしまわないだろうか。そんな大きな疑問符をこの映画は見るものに植え付ける。 社会の犠牲者に対して何ができるか ある意味、司法制度という社会の仕組みの犠牲者といえる2人の運命はもちろん悲惨なものだが、その2人を支える人たちにも大きな負担がのしかかる。一番近くで支える袴田さんの姉と奥西さんの妹はもちろんだが、支援者たちも自分たちの時間やお金を費やしている。奥西さんの場合、もし亡くなってしまった場合にも再審請求が続けられるよう、支援者の1人が養子となってまで支援を続ける。 支援者たちの活動には頭が下がる。彼らはある意味、(本当に冤罪であるとすれば)社会の犠牲者である袴田さんと奥西さんとその家族に対して社会を代表して贖罪を行っているのではないか。 この映画を観て、私は司法制度への憤りは覚えたが、それを自分に引きつけることがなかなかできなかった。それは自分自身が彼らの犠牲を強いている社会の側にいるからかも知れないと、この文章を書きながら思った。再審請求を却下し続ける裁判所に疑問は抱くけれど、どこかでそれを受け入れてしまっている自分もいる。正直なところそんなことを思った。それは自分は社会の犠牲者になりたくないという気持ちの現われでもあるかもしれない。 じゃあ自分はどうしたいのか。綺麗事かも知れないが、これから日本に司法制度が良くなっていき、社会の犠牲になる人が減っていくためにできることは何かを考えるしかないのではないか。直接彼らを支援する勇気も行動力もないけれど、別の形で彼らに報えればいい、そんなことを思ったのは、この映画を作った人たちもそんな思いがあったからかも知れない。 本当にドキュメンタリー映画からはたくさんのことを学ぶことができる。勇気も行動力もない私にできることは学び、伝えることくらいだ。 https://youtu.be/RqYNwOAOhGM 『ふたりの死刑囚』 2015年/日本/85分 監督:鎌田麗香 撮影:坂井洋紀 音楽:本多俊之 ナレーション:仲代達矢
Share this: