昔から、泡沫候補と言われる人たちのことが気になっていた。マック赤坂、羽柴誠三秀吉、又吉イエス、秋山祐徳太子、古くは赤尾敏。
なぜなのか考えたことはなかったけれど、とにかく気になっていた。彼らに投票することは決してなかったけれど、彼らが何を考えているのかは気になって選挙公報や政見放送を見たりはした。

そんな泡沫候補たちが主人公になったドキュメンタリー映画『立候補』を見たら、なぜ自分が彼らに惹かれるのか少しわかった気がした。

政治は誰のものか

この映画の主人公はマック赤坂だ。ありとあらゆる選挙に出て、奇抜な格好で選挙演説や政見放送をしているから知っている人は多いだろう。でも、多くの人は彼をただのキワモノと考えている。「10度、20度、30度!」と口角を上げる運動が政治と何の関係があるかよくわからない「スマイル党総裁」を名乗るマック赤坂は一体何がしたいのか。

この映画でマック赤坂が一番訴えているように思えるのは、候補者の扱いの不平等だ。同じ供託金を払っているのに、新聞では主な候補者とそれ以外に区別され、そもそもその存在が知られる機会がない。この映画の舞台は大阪知事選挙だが、マックはなぜか京都まで演説に行き、四条の繁華街の真ん中で演説をしようとして公安に目をつけられる。そこでマックは「候補者はどこでも演説する権利がある」と言っていて本当か?と思ったが本当らしい。

マック赤坂は立候補者の権利をフルに使って人々に「何か」を訴える。それが何なのかはよくわからないのだが、とにかく訴える。その訴える力はすごい。

©2013 word&sentence

映画の終盤では、維新陣営が演説を予定している現場に先に乗り込み、演説を行う。観衆からはブーイングが浴びせられるが、橋下徹はマック赤坂にも時間をあげようと演説の開始を遅らせて、マックに訴える時間を与える。しかし、彼はそうしたのはパフォーマンスだ。自分たちの懐の深さをアピールするためだ。箸にも棒にもかからない泡沫候補だからそうしたのだ。

この時に私は気づいた、マックが示しているのは、少数者の声を圧殺する多数者の暴力なのだと。維新陣営は、少数の声を尊重しているように見せかけるだけで実際は圧殺している。あるいは支持者がその声を圧殺することを知って放置している。

つまり、マック赤坂がやっているのは多数派による暴力の反抗だ。彼の主張の内容はともかくとして、その姿勢に私は賛同する。

アナーキーとサバルタン

さらにそれを過激にやるのが外山恒一だ。映画でも取り上げられている彼の都知事選での伝説的な政見放送は今もYouTubeで見ることができる。

彼の主張は全てをぶち壊すこと、完全なるアナーキズムだ。こうなるともちろんほとんどの人の支持は得られないし、私も支持はしない。しかし彼は重要なことを言っている。それは「われわれは少数派だ」ということだ。ここにこの作品が言いたいことが凝縮しているような気がした。

そして私が彼らに惹かれる理由もここにある気がした。私がこんなふうに文章を書いている理由の一つは、少数者の声を拾い集めることだ。大きな理由ではないけれど、理由の一つではある。だから少数者の声を聴くことにも興味がある。彼らは少数者の代表であり、だから彼らに惹かれるのだ。

そして、その少数者とは社会の多様性を示す存在だ。政治に話を戻すと、日本の国政は長らく55年体制にあり、自民党か反自民かという選択肢しかなかった。自民の中にも反自民の中にも多少の多様性はあったけれど、基本的には二択だった。泡沫候補はその二択からこぼれ落ちる多様な価値観から生まれた徒花だったのではないか。

この少数者は、サバルタンとも言うことができる。サバルタンというのは権力構造から社会的、政治的、地理的に疎外された人々で、彼らの声は決して社会に届かないし、彼らの声を知識人が代弁することは基本的にできないと語ったのはガヤトリ・スピヴァクだ。

政治というのは本来、サバルタンの声を拾い上げて彼らの居場所を社会に作ることをしなければいけないはずだ。しかし今の政治は数の論理で少数派の声を圧殺し、多数が正義だと言い張っている。泡沫候補はそんな多数派の暴力に力なく反抗する。だから私は彼らのことが好きなのだ。

『立候補』
2013年/日本/100分
監督:藤岡利充
撮影:木野内哲也
音楽:田戸達英(主題曲)・岩崎太整・佐藤ひろのすけ
http://socine.info/wp-content/uploads/2018/05/candidates_1.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2018/05/candidates_1-300x300.jpgishimuraMovieドキュメンタリー,多様性,政治,選挙
昔から、泡沫候補と言われる人たちのことが気になっていた。マック赤坂、羽柴誠三秀吉、又吉イエス、秋山祐徳太子、古くは赤尾敏。 なぜなのか考えたことはなかったけれど、とにかく気になっていた。彼らに投票することは決してなかったけれど、彼らが何を考えているのかは気になって選挙公報や政見放送を見たりはした。 そんな泡沫候補たちが主人公になったドキュメンタリー映画『立候補』を見たら、なぜ自分が彼らに惹かれるのか少しわかった気がした。 政治は誰のものか この映画の主人公はマック赤坂だ。ありとあらゆる選挙に出て、奇抜な格好で選挙演説や政見放送をしているから知っている人は多いだろう。でも、多くの人は彼をただのキワモノと考えている。「10度、20度、30度!」と口角を上げる運動が政治と何の関係があるかよくわからない「スマイル党総裁」を名乗るマック赤坂は一体何がしたいのか。 この映画でマック赤坂が一番訴えているように思えるのは、候補者の扱いの不平等だ。同じ供託金を払っているのに、新聞では主な候補者とそれ以外に区別され、そもそもその存在が知られる機会がない。この映画の舞台は大阪知事選挙だが、マックはなぜか京都まで演説に行き、四条の繁華街の真ん中で演説をしようとして公安に目をつけられる。そこでマックは「候補者はどこでも演説する権利がある」と言っていて本当か?と思ったが本当らしい。 マック赤坂は立候補者の権利をフルに使って人々に「何か」を訴える。それが何なのかはよくわからないのだが、とにかく訴える。その訴える力はすごい。 映画の終盤では、維新陣営が演説を予定している現場に先に乗り込み、演説を行う。観衆からはブーイングが浴びせられるが、橋下徹はマック赤坂にも時間をあげようと演説の開始を遅らせて、マックに訴える時間を与える。しかし、彼はそうしたのはパフォーマンスだ。自分たちの懐の深さをアピールするためだ。箸にも棒にもかからない泡沫候補だからそうしたのだ。 この時に私は気づいた、マックが示しているのは、少数者の声を圧殺する多数者の暴力なのだと。維新陣営は、少数の声を尊重しているように見せかけるだけで実際は圧殺している。あるいは支持者がその声を圧殺することを知って放置している。 つまり、マック赤坂がやっているのは多数派による暴力の反抗だ。彼の主張の内容はともかくとして、その姿勢に私は賛同する。 アナーキーとサバルタン さらにそれを過激にやるのが外山恒一だ。映画でも取り上げられている彼の都知事選での伝説的な政見放送は今もYouTubeで見ることができる。 https://youtu.be/5Tg5H3fz39M 彼の主張は全てをぶち壊すこと、完全なるアナーキズムだ。こうなるともちろんほとんどの人の支持は得られないし、私も支持はしない。しかし彼は重要なことを言っている。それは「われわれは少数派だ」ということだ。ここにこの作品が言いたいことが凝縮しているような気がした。 そして私が彼らに惹かれる理由もここにある気がした。私がこんなふうに文章を書いている理由の一つは、少数者の声を拾い集めることだ。大きな理由ではないけれど、理由の一つではある。だから少数者の声を聴くことにも興味がある。彼らは少数者の代表であり、だから彼らに惹かれるのだ。 そして、その少数者とは社会の多様性を示す存在だ。政治に話を戻すと、日本の国政は長らく55年体制にあり、自民党か反自民かという選択肢しかなかった。自民の中にも反自民の中にも多少の多様性はあったけれど、基本的には二択だった。泡沫候補はその二択からこぼれ落ちる多様な価値観から生まれた徒花だったのではないか。 この少数者は、サバルタンとも言うことができる。サバルタンというのは権力構造から社会的、政治的、地理的に疎外された人々で、彼らの声は決して社会に届かないし、彼らの声を知識人が代弁することは基本的にできないと語ったのはガヤトリ・スピヴァクだ。 政治というのは本来、サバルタンの声を拾い上げて彼らの居場所を社会に作ることをしなければいけないはずだ。しかし今の政治は数の論理で少数派の声を圧殺し、多数が正義だと言い張っている。泡沫候補はそんな多数派の暴力に力なく反抗する。だから私は彼らのことが好きなのだ。 https://youtu.be/u85B8gMad5s 『立候補』 2013年/日本/100分 監督:藤岡利充 撮影:木野内哲也 音楽:田戸達英(主題曲)・岩崎太整・佐藤ひろのすけ
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