© Laboratory X, Inc

ドキュメンタリー映画『港町』は、想田和弘監督が前作『牡蠣工場』の撮影の時に出会った老人を撮っているうちに出来上がった映画だ。想田監督は自分の作品を”観察映画”のシリーズとして発表していて、この作品も「観察映画第7弾」と題されている。最終的には観察の話に行き着くのだけれど、まずは観察映画ということは抜きにして、この映画のことを純粋に考えてみたい。

モノクロの夢物語

まず、この映画の一つの特徴はモノクロであるということだ。今を撮ったドキュメンタリーなのだからモノクロである必要はないのだけれど、あえてモノクロにしたというのはそこに何らかの狙いがあるはずだ。まあその狙いが何なのかはいいとして、効果として感じられたのは、ここに映る「港町」から現実味が失われるということだ。そして何かに似てる気がして、何に似てるんだろうと考えて思ったのはタルコフスキーだったり、新藤兼人の『裸の島』だったり、やはり現実なのだけれどどこか異世界を描いているような作品で、モノクロであることがその雰囲気を生み出しているように思えた。

この現実感の乏しさというのはモノクロの映像だけでなく、その内容からも感じられる。映画は最初、ワイちゃんという漁師を追うのだが、このワイちゃんの耳が遠くてなかなか会話が成立しづらく、そこにクミさんというおばちゃんが入ってくるのだが、この人がまたコミュニケーションを取りづらい人で、監督はこれまでの作品より積極的に質問者として入ってくるのだが、それでも観る側が容易に意味を捉えられるシーンというのはなかなか生まれない。

それとは別の魚屋さんの部分やお墓のエピソードなどはそこに生活があることを実感させてくれて、この町が実在し、登場する人たちも実在の人物なんだと納得はできるけれど、全体を通してみるとどこか夢物語のような感覚がつきまとう。

© Laboratory X, Inc

物語と観察

想田監督の観察映画は、観察して集めた素材を監督なりの物語に編集して提供するというものだと思う。「観察映画の十戒」というのを掲げて色々言っているけれど、要するに撮影現場で出会ったものをそのまま素材にして余計なものは加えず観客の観察に委ねるということだ。それでも映画である以上、物語は必要なので監督が物語を組み立てるし、擬似的な一日の区切りを作ったりもする。

それがどういうことなのかと考えると、被写体となっている世界と、われわれがいる世界があって、監督=カメラはその境界に存在してフィルターあるいは額縁の役割をしていると考えられる。我々は監督が提供する枠を通してその世界を観察することになるのだ。そしてそのカメラは対象となる世界をわれわれが充分に観察できるようにいろいろな角度からその世界を切り取っていく。そうなると、カメラの切り取り方によってその世界はある程度区切られることになる。カメラによって切り取られていない部分はわれわれには存在しないのだから、実際にそこに存在した被写体のいる世界とわれわれが観る世界ではわれわれの観る世界のほうが小さくなる。当たり前だが。要するに、監督は世界に枠をはめているのだ。

ただ、われわれにはその枠も見えていて、枠にはめる監督も映画の中に入り込んでくるので、われわれはその枠ごと世界を観察することになる。何を言っているかわからないかも知れないが、この枠にはめること自体も映画の表現の一部だということだ。

そのように感じたのは、この映画が最終的に監督がはめようとした枠からはみ出ていくように思えるからだ。もちろん、監督は撮り始める前に物語を想定していないし、物語を組み立てるのは素材をすべて揃えた後なのだから、はみ出ていくように思えたとしてもそれも作り上げられたものなわけだけれど、映画の前半で想定される枠からはみ出したところに物語は展開していくのだ。

© Laboratory X, Inc

その具体的な内容は書けないけれど、クミさんの話の内容が予想外すぎるということだけは書いておこう。それを聞いたときは本当のことを言ってるのかもわからないし、なんでそんな話をするのかもわからないし、そんな事情があるのになんでこれまでそんな振る舞いをしてきたのかもわからないし、と疑問符ばかりが浮かんで理解の範囲を超えていく。

これもまたこの映画の現実感を薄れさせる要因の一つだ。

観察と考察

観察とは一体何なのだろうか?

観察というのはある種、特権的な立場から相手の現実を切り取っていく作業のように思える。しかし、観察の現場には実は相互作用があり、観察する側とされる側は影響しあっている。そう考えると、観察という作業は実は観察している自分と観察されている対象の両方を観察することによって初めて成立することなのではないか。観察映画というのは想田監督が現場で観察をしている映画だと思っていたが、実はそうではなくて、撮影をしている自分をも含めて観察して物語を構築した映画ということなのではないか。そこには考察という要素も入ってくるかも知れないけれど、その要素が入ってこないと観察に意味は生まれてこないのだから入ってくるのは必然なのだろう。

映画ではなくても、例えば昆虫を観察したとして、ただ見ただけでは意味がなく、その見た環境や結果や様々な要素を見て、それを考え合わせて初めて観察と言えるし意味が出てくるのではないか。

この映画の場合、観察者と被観察者の相互作用が大きく、被観察者であるクミさんは観察者の予断を裏切って逸脱していってしまった。それによって観察そのものについて考えさせられることになった。でも、考えてみればそうやって逸脱を観察できるのは非常に貴重なことであるし、それが真実なのだから観察する意味がある。予断通りにすべてが収まってしまうのなら観察にあまり意味はないのではないか?

これまでの観察映画にも大きさの違いこそあれ逸脱はあったはずだ。だから映画として面白くなるのだと思う。

観た段階では、これまでの観察映画とは違うと感じたわけだが、考察を重ねてみると、実はそんなに違いはないということが観察の結果わかった。

なんだか小難しい表現になってしまったけれど、この映画の観察の過程で発見ができてよかった。

みなさんにはぜひ、この映画を観察して、この映画を観察する私を観察して、その自分を観察して欲しい。

『港町』
2018年/日本/122分
製作・監督・撮影・編集:想田和弘
2018年4月7日よりシアター・イメージフォーラム他にて公開
http://socine.info/wp-content/uploads/2018/04/640-4.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2018/04/640-4-300x300.jpgishimuraFeaturedMovieドキュメンタリー,モノクロ,想田和弘,物語
ドキュメンタリー映画『港町』は、想田和弘監督が前作『牡蠣工場』の撮影の時に出会った老人を撮っているうちに出来上がった映画だ。想田監督は自分の作品を”観察映画”のシリーズとして発表していて、この作品も「観察映画第7弾」と題されている。最終的には観察の話に行き着くのだけれど、まずは観察映画ということは抜きにして、この映画のことを純粋に考えてみたい。 モノクロの夢物語 まず、この映画の一つの特徴はモノクロであるということだ。今を撮ったドキュメンタリーなのだからモノクロである必要はないのだけれど、あえてモノクロにしたというのはそこに何らかの狙いがあるはずだ。まあその狙いが何なのかはいいとして、効果として感じられたのは、ここに映る「港町」から現実味が失われるということだ。そして何かに似てる気がして、何に似てるんだろうと考えて思ったのはタルコフスキーだったり、新藤兼人の『裸の島』だったり、やはり現実なのだけれどどこか異世界を描いているような作品で、モノクロであることがその雰囲気を生み出しているように思えた。 この現実感の乏しさというのはモノクロの映像だけでなく、その内容からも感じられる。映画は最初、ワイちゃんという漁師を追うのだが、このワイちゃんの耳が遠くてなかなか会話が成立しづらく、そこにクミさんというおばちゃんが入ってくるのだが、この人がまたコミュニケーションを取りづらい人で、監督はこれまでの作品より積極的に質問者として入ってくるのだが、それでも観る側が容易に意味を捉えられるシーンというのはなかなか生まれない。 それとは別の魚屋さんの部分やお墓のエピソードなどはそこに生活があることを実感させてくれて、この町が実在し、登場する人たちも実在の人物なんだと納得はできるけれど、全体を通してみるとどこか夢物語のような感覚がつきまとう。 物語と観察 想田監督の観察映画は、観察して集めた素材を監督なりの物語に編集して提供するというものだと思う。「観察映画の十戒」というのを掲げて色々言っているけれど、要するに撮影現場で出会ったものをそのまま素材にして余計なものは加えず観客の観察に委ねるということだ。それでも映画である以上、物語は必要なので監督が物語を組み立てるし、擬似的な一日の区切りを作ったりもする。 それがどういうことなのかと考えると、被写体となっている世界と、われわれがいる世界があって、監督=カメラはその境界に存在してフィルターあるいは額縁の役割をしていると考えられる。我々は監督が提供する枠を通してその世界を観察することになるのだ。そしてそのカメラは対象となる世界をわれわれが充分に観察できるようにいろいろな角度からその世界を切り取っていく。そうなると、カメラの切り取り方によってその世界はある程度区切られることになる。カメラによって切り取られていない部分はわれわれには存在しないのだから、実際にそこに存在した被写体のいる世界とわれわれが観る世界ではわれわれの観る世界のほうが小さくなる。当たり前だが。要するに、監督は世界に枠をはめているのだ。 ただ、われわれにはその枠も見えていて、枠にはめる監督も映画の中に入り込んでくるので、われわれはその枠ごと世界を観察することになる。何を言っているかわからないかも知れないが、この枠にはめること自体も映画の表現の一部だということだ。 そのように感じたのは、この映画が最終的に監督がはめようとした枠からはみ出ていくように思えるからだ。もちろん、監督は撮り始める前に物語を想定していないし、物語を組み立てるのは素材をすべて揃えた後なのだから、はみ出ていくように思えたとしてもそれも作り上げられたものなわけだけれど、映画の前半で想定される枠からはみ出したところに物語は展開していくのだ。 その具体的な内容は書けないけれど、クミさんの話の内容が予想外すぎるということだけは書いておこう。それを聞いたときは本当のことを言ってるのかもわからないし、なんでそんな話をするのかもわからないし、そんな事情があるのになんでこれまでそんな振る舞いをしてきたのかもわからないし、と疑問符ばかりが浮かんで理解の範囲を超えていく。 これもまたこの映画の現実感を薄れさせる要因の一つだ。 観察と考察 観察とは一体何なのだろうか? 観察というのはある種、特権的な立場から相手の現実を切り取っていく作業のように思える。しかし、観察の現場には実は相互作用があり、観察する側とされる側は影響しあっている。そう考えると、観察という作業は実は観察している自分と観察されている対象の両方を観察することによって初めて成立することなのではないか。観察映画というのは想田監督が現場で観察をしている映画だと思っていたが、実はそうではなくて、撮影をしている自分をも含めて観察して物語を構築した映画ということなのではないか。そこには考察という要素も入ってくるかも知れないけれど、その要素が入ってこないと観察に意味は生まれてこないのだから入ってくるのは必然なのだろう。 映画ではなくても、例えば昆虫を観察したとして、ただ見ただけでは意味がなく、その見た環境や結果や様々な要素を見て、それを考え合わせて初めて観察と言えるし意味が出てくるのではないか。 この映画の場合、観察者と被観察者の相互作用が大きく、被観察者であるクミさんは観察者の予断を裏切って逸脱していってしまった。それによって観察そのものについて考えさせられることになった。でも、考えてみればそうやって逸脱を観察できるのは非常に貴重なことであるし、それが真実なのだから観察する意味がある。予断通りにすべてが収まってしまうのなら観察にあまり意味はないのではないか? これまでの観察映画にも大きさの違いこそあれ逸脱はあったはずだ。だから映画として面白くなるのだと思う。 観た段階では、これまでの観察映画とは違うと感じたわけだが、考察を重ねてみると、実はそんなに違いはないということが観察の結果わかった。 なんだか小難しい表現になってしまったけれど、この映画の観察の過程で発見ができてよかった。 みなさんにはぜひ、この映画を観察して、この映画を観察する私を観察して、その自分を観察して欲しい。 https://youtu.be/vehnVnEdV8I 『港町』 2018年/日本/122分 製作・監督・撮影・編集:想田和弘 2018年4月7日よりシアター・イメージフォーラム他にて公開
Share this: