© 2014 Gallery Film LLC & Ideale Audience
Provided courtesy of Zipporah Films www.zipporah.com

最近、というわけでもないが、アートの社会における重要性というのを感じる。アートというと小難しくて、「普通」の人たちには馴染みないもののように思えるが、たまに展覧会に行ったりすると、その力をすごく感じたりする。それはなぜかと考えてみると、そこに表現されているものをわからないなりに理解しようとするからではないかと思う。そこに描かれている図像を自分なりに解釈して、それを自分自身に引きつけて考えてみるのだ。

だから、そのアートというのは、別にファインアートでなくてもいい。観る人がアートだと思えば、マンガでも、映画でも、アイドルのライブでもなんでもいいのだ。ただ、それはエンターテインメントとは距離がある。エンターテインメントとは楽しむもので、消費するものだ。アートとは味わって、蓄積するものだ。もちろん、一つの表現の中にエンターテインメントとアートが共存しているものもたくさんある、というより優れたアートのほとんどはそうなのだろう。

ここで、そんなことを書いているのは、もちろん今回紹介する作品『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』がそんなことを考えさせる作品だからだ。

この作品の監督、フレデリック・ワイズマンと言えば、アメリカのドキュメンタリー映画界の重鎮、御年87歳で、50年に渡りドキュメンタリー映画を取り続けてきた。この作品は2014年の作品。ワイズマンの作品の特徴は、ナレーションやBGM、字幕などが一切なく、ある場所で撮影した映像だけを繋いだというものだ。撮影には数週間かかり、編集には数カ月かかる。作品は長いものでは6時間にもなる。

ワイズマンについては、書きたいことがたくさんあるけれど、長くなってしまうので、興味のある方には、かなりの数の作品のレビューを並べたこちらを観ていただくとして、ここでは簡単に説明したい。(さらに詳しく知りたい人は、私も著者の端っこに名を連ねているこちらの本↓をどうぞ)

フレデリック・ワイズマンが被写体にするのは、『高校』『病院』といった施設で、『モデル』『肉』といったタイトルの作品でも、被写体となるのはモデル事務所や食肉加工場といった施設になる。その施設で働く人たちややって来る人たちの日々の活動を粘り強く映すことで、観客がそこに存在する問題を発見し、それを社会としてどうするべきかを自分にひきつけて考えられるような環境を作っていくものになっている。そして、それは多くの場合ワイズマン自身の「発見の旅」の追体験のような形になっている。

などと言われてもよくわからないと思うが、今回の『ナショナル・ギャラリー』を観ると、それは比較的わかりやすい。これは、近年ワイズマンが多く製作しているアート系の作品の一つだ。1995年に『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』、1996年に『コメディ・フランセーズ』を撮り、少しあいて、2009年に『パリ・オペラ座の全て』、2011年に『クレイジー・ホース・パリ』を撮り、そして今回の作品を撮っている。

これらのアート系の作品は特定の施設、しかも有名な団体を題材にしているので、ワイズマンがより広い層に観られるようになり、ワイズマン作品への入口として優れたものになっている。しかも、ワイズマンのスタイルは他の作品と変わらない。

さて、そんな『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』だが、映画はいつものように何の説明もなく始まる。学芸員が絵の解説をしているシーンだ。そこから、運営会議のシーンや、修復部門の映像、美術館を訪れる人々の表情などが映されてゆく。ワイズマンの映画は一つの施設のさまざまな場所で展開される出来事を羅列していく展開が多く、これもそのフォーマットにそっている。しかし、その羅列によって、この美術館で行われている活動がどのようなものかが少しずつつかめてくる。私たちが知っている展示室の様子、そこでの解説やホールでのイベント。加えて、修復という仕事、方針や予算について話し合う運営の仕事などだ。

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この映画で面白いのは、一つは、絵画についての解説を聞くことができるということだ。学芸員の解説はもちろん、途中では美術番組の収録風景も出てきたりして、様々な作品について専門家が語るシーンが登場する。取り上げられる作品は散漫だが、撮影期間中に企画展が行われたらしいレオナルド・ダ・ヴィンチや、ティチアーノ、ターナーなどの作品を堪能できるし、散漫なためにもっと詳しく知りたいという欲求も生まれてくる。

もう一つは、絵画や映画ってなんなんだろう?と考えさせられる点だ。この映画ではたびたび、美術館にいる人々と絵に描かれた人物が交互に映されるシーンが登場する。このシークエンスで私たちは、絵に描かれた人物の表情から感情を読み取ろうとしてしまう。そして、文脈によってその感情は変わってくるように思えるのだ。これは、モンタージュの基本でもあるが、編集の仕方によって映像の見え方は違ってくるということの端的な見本である。

この「見え方が違ってくる」というのがこの映画の肝なのではないかと思うのだ。アートを観るときに、学芸員が解説したりすると、それが正解だと思ってしまうが、実はそれも学芸員個人の解釈でしかなく、正解などというものではない。観る人それぞれの見方があっていいし、それぞれの解釈が面白いのだ。そのことを、この作品は学芸員の言葉と絵画の映像の対比によってほのめかす。

その端的な例と言えるのが、映画の終盤で登場するティチアーノ展の目玉らしき作品。題名は覚えていない(説明されていないかもしれない)が、ディアナとカリストが登場する複数の作品だ。この作品について学芸員による解説と、詩人がそれにインスピレーションを受けて作った詩を読んでそれを解説するのと、作品の前でダンサーがバレエを踊るという3つのシーンが展開される。これを観ると、そのそれぞれが作品の解釈であることがわかる。詩やダンスの場合は別のアートの形で解釈しているので、また解釈が必要になるわけだが、とにかく、別の形で表現されているわけだ。

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そう考えると、学芸員の解説というのは、絵を謎としてそれを解くというエンターテインメント要素を絵に加えるものなのかもしれないとも思った。アーティストではない私たちは、そのようにエンターテインメント化してもらうことで、アートに近づきやすくなるのかもしれない。また話がずれてきてしまったが、このように色々なことを考えてしまうのもワイズマン作品を見るときによく起きることだ。

さて、そのように観る人によって見え方が異なるというのは、実はこの映画をはじめとしたワイズマンの作品についても大いに言えることだろうと思う。ワイズマンの作品は、ナレーションもBGMも字幕も入れず、映像の編集だけで物語を作っている。それは、言葉で説明するよりも解釈の幅が広いやり方だ。映像の羅列からどのような物語を読み取り、どのような感情を抱くかは人によって大きく異なってくる。

例えば、この作品に巨大な花瓶が登場する。途中でこの巨大な花瓶に木の枝のようなものを次々と刺していくシーンが挟まれ、その後、何度かこの過敏がある部屋が映るのだが、この花瓶を映画の中で意味付けることは可能だろうか?そもそもこの花瓶の存在に気づかない人もいるのではないか。私は、主役であるアートを見る環境を整える人たちの役割を表現する要素の一つだと思ったが、別の解釈もできるはずだ。

これは瑣末な例にすぎないが、このような解釈の違いこそワイズマンが表現したいことであり、アートを見る人達を通して私達に伝えたかったことなのではないか。そして、もちろんこれも解釈の一つにすぎないわけだが、あらゆるものをエンターテインメント化して解釈の余地をなくしてしまう今の社会に対して異議を唱えているのではないだろうか。

美術館の運営会議のシーンで、おそらく館長と思われる人が「ダ・ヴィンチ展なら放っておいても客が来る」というような発言をする場面がある。ここに、評価が揺るぎない美術がもてはやされる今の時代(昔からそうかもしれないが)のわかりやすさ志向への揶揄が込められている気がするのは考えすぎだろうか?

考えてみれば、ワイズマンが様々な施設を被写体としてきたのも、世の中にはいろいろな人がいるということを生涯をかけて私達に示そうとしてきたということなのかもしれない。ワイズマンの作品からいつも私は、差異を認識し、その際を尊重することの大切さを教えられる気がする。

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』
2014年/アメリカ=フランス/181分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

ishimuraMovieアート,フレデリック・ワイズマン
最近、というわけでもないが、アートの社会における重要性というのを感じる。アートというと小難しくて、「普通」の人たちには馴染みないもののように思えるが、たまに展覧会に行ったりすると、その力をすごく感じたりする。それはなぜかと考えてみると、そこに表現されているものをわからないなりに理解しようとするからではないかと思う。そこに描かれている図像を自分なりに解釈して、それを自分自身に引きつけて考えてみるのだ。 だから、そのアートというのは、別にファインアートでなくてもいい。観る人がアートだと思えば、マンガでも、映画でも、アイドルのライブでもなんでもいいのだ。ただ、それはエンターテインメントとは距離がある。エンターテインメントとは楽しむもので、消費するものだ。アートとは味わって、蓄積するものだ。もちろん、一つの表現の中にエンターテインメントとアートが共存しているものもたくさんある、というより優れたアートのほとんどはそうなのだろう。 ここで、そんなことを書いているのは、もちろん今回紹介する作品『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』がそんなことを考えさせる作品だからだ。 この作品の監督、フレデリック・ワイズマンと言えば、アメリカのドキュメンタリー映画界の重鎮、御年87歳で、50年に渡りドキュメンタリー映画を取り続けてきた。この作品は2014年の作品。ワイズマンの作品の特徴は、ナレーションやBGM、字幕などが一切なく、ある場所で撮影した映像だけを繋いだというものだ。撮影には数週間かかり、編集には数カ月かかる。作品は長いものでは6時間にもなる。 ワイズマンについては、書きたいことがたくさんあるけれど、長くなってしまうので、興味のある方には、かなりの数の作品のレビューを並べたこちらを観ていただくとして、ここでは簡単に説明したい。(さらに詳しく知りたい人は、私も著者の端っこに名を連ねているこちらの本↓をどうぞ) フレデリック・ワイズマンが被写体にするのは、『高校』『病院』といった施設で、『モデル』『肉』といったタイトルの作品でも、被写体となるのはモデル事務所や食肉加工場といった施設になる。その施設で働く人たちややって来る人たちの日々の活動を粘り強く映すことで、観客がそこに存在する問題を発見し、それを社会としてどうするべきかを自分にひきつけて考えられるような環境を作っていくものになっている。そして、それは多くの場合ワイズマン自身の「発見の旅」の追体験のような形になっている。 などと言われてもよくわからないと思うが、今回の『ナショナル・ギャラリー』を観ると、それは比較的わかりやすい。これは、近年ワイズマンが多く製作しているアート系の作品の一つだ。1995年に『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』、1996年に『コメディ・フランセーズ』を撮り、少しあいて、2009年に『パリ・オペラ座の全て』、2011年に『クレイジー・ホース・パリ』を撮り、そして今回の作品を撮っている。 これらのアート系の作品は特定の施設、しかも有名な団体を題材にしているので、ワイズマンがより広い層に観られるようになり、ワイズマン作品への入口として優れたものになっている。しかも、ワイズマンのスタイルは他の作品と変わらない。 さて、そんな『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』だが、映画はいつものように何の説明もなく始まる。学芸員が絵の解説をしているシーンだ。そこから、運営会議のシーンや、修復部門の映像、美術館を訪れる人々の表情などが映されてゆく。ワイズマンの映画は一つの施設のさまざまな場所で展開される出来事を羅列していく展開が多く、これもそのフォーマットにそっている。しかし、その羅列によって、この美術館で行われている活動がどのようなものかが少しずつつかめてくる。私たちが知っている展示室の様子、そこでの解説やホールでのイベント。加えて、修復という仕事、方針や予算について話し合う運営の仕事などだ。 この映画で面白いのは、一つは、絵画についての解説を聞くことができるということだ。学芸員の解説はもちろん、途中では美術番組の収録風景も出てきたりして、様々な作品について専門家が語るシーンが登場する。取り上げられる作品は散漫だが、撮影期間中に企画展が行われたらしいレオナルド・ダ・ヴィンチや、ティチアーノ、ターナーなどの作品を堪能できるし、散漫なためにもっと詳しく知りたいという欲求も生まれてくる。 もう一つは、絵画や映画ってなんなんだろう?と考えさせられる点だ。この映画ではたびたび、美術館にいる人々と絵に描かれた人物が交互に映されるシーンが登場する。このシークエンスで私たちは、絵に描かれた人物の表情から感情を読み取ろうとしてしまう。そして、文脈によってその感情は変わってくるように思えるのだ。これは、モンタージュの基本でもあるが、編集の仕方によって映像の見え方は違ってくるということの端的な見本である。 この「見え方が違ってくる」というのがこの映画の肝なのではないかと思うのだ。アートを観るときに、学芸員が解説したりすると、それが正解だと思ってしまうが、実はそれも学芸員個人の解釈でしかなく、正解などというものではない。観る人それぞれの見方があっていいし、それぞれの解釈が面白いのだ。そのことを、この作品は学芸員の言葉と絵画の映像の対比によってほのめかす。 その端的な例と言えるのが、映画の終盤で登場するティチアーノ展の目玉らしき作品。題名は覚えていない(説明されていないかもしれない)が、ディアナとカリストが登場する複数の作品だ。この作品について学芸員による解説と、詩人がそれにインスピレーションを受けて作った詩を読んでそれを解説するのと、作品の前でダンサーがバレエを踊るという3つのシーンが展開される。これを観ると、そのそれぞれが作品の解釈であることがわかる。詩やダンスの場合は別のアートの形で解釈しているので、また解釈が必要になるわけだが、とにかく、別の形で表現されているわけだ。 そう考えると、学芸員の解説というのは、絵を謎としてそれを解くというエンターテインメント要素を絵に加えるものなのかもしれないとも思った。アーティストではない私たちは、そのようにエンターテインメント化してもらうことで、アートに近づきやすくなるのかもしれない。また話がずれてきてしまったが、このように色々なことを考えてしまうのもワイズマン作品を見るときによく起きることだ。 さて、そのように観る人によって見え方が異なるというのは、実はこの映画をはじめとしたワイズマンの作品についても大いに言えることだろうと思う。ワイズマンの作品は、ナレーションもBGMも字幕も入れず、映像の編集だけで物語を作っている。それは、言葉で説明するよりも解釈の幅が広いやり方だ。映像の羅列からどのような物語を読み取り、どのような感情を抱くかは人によって大きく異なってくる。 例えば、この作品に巨大な花瓶が登場する。途中でこの巨大な花瓶に木の枝のようなものを次々と刺していくシーンが挟まれ、その後、何度かこの過敏がある部屋が映るのだが、この花瓶を映画の中で意味付けることは可能だろうか?そもそもこの花瓶の存在に気づかない人もいるのではないか。私は、主役であるアートを見る環境を整える人たちの役割を表現する要素の一つだと思ったが、別の解釈もできるはずだ。 これは瑣末な例にすぎないが、このような解釈の違いこそワイズマンが表現したいことであり、アートを見る人達を通して私達に伝えたかったことなのではないか。そして、もちろんこれも解釈の一つにすぎないわけだが、あらゆるものをエンターテインメント化して解釈の余地をなくしてしまう今の社会に対して異議を唱えているのではないだろうか。 美術館の運営会議のシーンで、おそらく館長と思われる人が「ダ・ヴィンチ展なら放っておいても客が来る」というような発言をする場面がある。ここに、評価が揺るぎない美術がもてはやされる今の時代(昔からそうかもしれないが)のわかりやすさ志向への揶揄が込められている気がするのは考えすぎだろうか? 考えてみれば、ワイズマンが様々な施設を被写体としてきたのも、世の中にはいろいろな人がいるということを生涯をかけて私達に示そうとしてきたということなのかもしれない。ワイズマンの作品からいつも私は、差異を認識し、その際を尊重することの大切さを教えられる気がする。 『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』 2014年/アメリカ=フランス/181分 監督:フレデリック・ワイズマン 撮影:ジョン・デイビー Amazon.co.jp ウィジェット