小池都知事が連発したことでも話題になった「ダイバーシティ」という言葉。日本語にすると「多様性」という意味で、小池都知事はともかくとして、これからの世界を考える上で重要な概念であることは間違いない。

「多様」の対義語は「一様」で、多様性が重視されるということは、これまでは一様であった、あるいは一様であると考えられていたということだ。特に日本は昔から「単一民族国家」などと言われ、みんな同じ、国民が一様であるという前提で国を考える人が多かったのだろうと思う。それが今は変わってきたからこそ「多様性」が重視されるのだ。しかし、一体何が多様で、私たちはそのような環境の変化の中でどのように行動すべきなのか、映画『ハーフ』はそんな多様化する社会について身近なところから私たちに考えさせてくれる作品だ。

この映画は、2人の「ハーフ」の女性監督が、4人の「ハーフ」の人たちと国際結婚した1家族の日々をフィルムに収めた作品だ。デイビッドはガーナ人の母親と日本人の父親の間に生まれ、両親が離婚し母がガーナに帰国したあとは、二人の兄弟とともに養護施設で育ったという。ソフィアは、オーストラリアで生まれ育ったハーフで、自分のルーツを知るために日本で暮らすことに決める。日本で育ったベネズエラ国籍のエドワードは、アメリカの大学を卒業した後、日本に戻り、そこでハーフの人たちやその家族が交流する場「ミックスルーツ関西」を始める。その「ミックスルーツ関西」の仲間のふさえは、韓国と日本のハーフ。子供のころは韓国人であることを隠されていたという。大井家は日本人とメキシコ人の夫婦と2人の子どもの4人家族、日本の学校に通う息子へのいじめに悩み、インターナショナルスクールへの転校を考える。

hafu_david

それぞれ異なる境遇にありながら、日本で暮らす彼らだが、彼らの話を聞いてまず感じるのは、彼らが感じる「疎外感」の大きさだ。日本社会において、見た目が少し違ったり、日本語が不得意だというだけで、その社会の一員とは認めてもらえないという疎外感。それは時にいじめにつながり、差別されているという感覚につながり、日本を嫌いになる原因にもなってしまう。

東京など大都市では、「多様なバックグラウンドを持つ人が増えている」と強く感る。そう感じるのは、いわゆる「外国人」という見た目や、中国語や韓国語といった異なる言語を聞いたときだ。それはつまり、外見や言葉によって日本人と外国人を区別し、外国人を「他者」として認識しているということだ。日本で生まれ育ち大人になると、そのような思考回路をいつの間にか持つようになってしまうのかもしれない。

これこそが日本人の「一様」の幻想と「多様化」の現実の間のギャップだ。他者と認識した人に対しては差別意識が生じ、いじめなどの具体的な行動に移ってしまう場合もある。多様性を受け入れる社会というのは、他者の存在を許す社会ではなく、多様な人達を「私たち」に含める社会である。つまり、見た目や言葉の違いにかかわらず、国単位であれば「日本人」であるという考え方を受け入れることを意味する。「ハーフ」の人たちが「疎外感を感じている」ということは私たちの社会が、そのような多様化した社会にはなり得ていないということだ。

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もちろん、日本だけがそうなわけではなく、世界中がそうだ。人種のるつぼと言われるアメリカでも排他主義ははびこり、多様性を受け入れない人はたくさんいる。しかし、同時に多様性を受け入れる人もたくさんいるし、社会制度が多様性を受け入れる社会にしようと整えられているのだ(トランプが大統領になるとどうなるかわからないが)。

では、この多様性を受け入れる社会を作るために必要なこととは何なのだろうか。一つの鍵は「集団」にあるように思える。個人のレベルではハーフであろうと在日外国人であろうと、その文化的な差異を乗り越えて人と人という形で普通に平等に付き合えるはずなのに、例えば学校という集団になると「異物」を疎外してしまうということがよくある。学校でそのようなことが、原因を意識しないままに起きてしまうのなら、社会というより大きな集団で同じように「疎外」が生じ、それが「差別」へと発展してしまうのことは想像に難くない。

個人のレベルでは「差異」でしかなかったものが集団になると「区別」になってしまう。本当は個人レベルの差異なんてものはどのような人の間にも存在するはずだが、それが一対多の関係になったり、目に見えて明らかなものであったりしたとき、「区別」や「差別」を生むのかもしれない。この映画はそのことに気づかせてくれる。

その仕組みの顕著な表れが「いじめ」だ。いじめの対象になる子供にも色々あるが、基本的にいじめというのは一対多の関係から生じる。一様な集団がそこから外れた他者をいじめるのだ。その一と多の差異は大きなこともあればとるに足らない小さなもののこともあるが、いずれにしろいじめをする「多」にとってはその差異がいじめる理由になるのだ。このいじめに表れる構造が温存されて社会全体に広がっているのが今の現状である、とヘイトスピーチのニュースなどを見るたびに思う。

しかしやはりそこでも問題になるのは集団なのだ。集団が形成されることで「人対人」であることを忘れてしまい、憎悪や対立が生まれる。それを避けるために重要なのは、「違う」部分よりも「同じ」部分に目を向けていくことではないか。この映画に登場する人たちはみんないい人たちだし、実際の会えば友達にもなれそうにも思える。このような人たちを私たちは差別してきた。なぜそうなってしまったのか。それは、「いい人」と思えるような共感できる部分を無視し、違う部分ばかりに目を向けてしまうからだ。

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映画の中で、ふさえさんが「キムチやビビンパはみんな普通に食べているもんだと思っていた」と話をするシーンがある。このシーンを見て思ったのは、誰しもそういう経験はあるということだ。たとえば、子供の頃おやつに何を食べていたか、そのことを話しあうだけで実は「普通ではなかった」と気づくことがある。それは、私たちのそれぞれが当たり前に思っていることが、必ずしも多数にとっての当たり前ではないということを示唆している。それが「差異」だ。そのような取るに足らない差異と、人種や言語といった「大きな」差異を、同じように大したことではないと心から思うことが出来るか、それがいまわたしたちに求められていることだ。

建前でそういうのは簡単だ。でも、この映画を見ると、これまで気づかなかった自分の偏見に気付かされて「はっ」とすることがある。だから「自分が多様化を受け入れる準備が出来ている」と思っている人にもぜひ観てほしい。いじめやヘイトスピーチをしている当事者にももちろん観てほしいが、そのような人たちに声が届くことにはあまり希望が持てないので。

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監督の西倉めぐみさんと高木ララさん

現在、Amazon Primeの対象作品なので、プライム会員は無料で観られます。ぜひ↓

『ハーフ』
2013年/日本/87分
監督・プロデューサー・撮影:西倉めぐみ、高木ララ


http://socine.info/wp-content/uploads/2016/11/hafu_OIS.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2016/11/hafu_OIS-300x300.jpgishimuraMoviediversity,mixroots,多様化,多様性
小池都知事が連発したことでも話題になった「ダイバーシティ」という言葉。日本語にすると「多様性」という意味で、小池都知事はともかくとして、これからの世界を考える上で重要な概念であることは間違いない。 「多様」の対義語は「一様」で、多様性が重視されるということは、これまでは一様であった、あるいは一様であると考えられていたということだ。特に日本は昔から「単一民族国家」などと言われ、みんな同じ、国民が一様であるという前提で国を考える人が多かったのだろうと思う。それが今は変わってきたからこそ「多様性」が重視されるのだ。しかし、一体何が多様で、私たちはそのような環境の変化の中でどのように行動すべきなのか、映画『ハーフ』はそんな多様化する社会について身近なところから私たちに考えさせてくれる作品だ。 この映画は、2人の「ハーフ」の女性監督が、4人の「ハーフ」の人たちと国際結婚した1家族の日々をフィルムに収めた作品だ。デイビッドはガーナ人の母親と日本人の父親の間に生まれ、両親が離婚し母がガーナに帰国したあとは、二人の兄弟とともに養護施設で育ったという。ソフィアは、オーストラリアで生まれ育ったハーフで、自分のルーツを知るために日本で暮らすことに決める。日本で育ったベネズエラ国籍のエドワードは、アメリカの大学を卒業した後、日本に戻り、そこでハーフの人たちやその家族が交流する場「ミックスルーツ関西」を始める。その「ミックスルーツ関西」の仲間のふさえは、韓国と日本のハーフ。子供のころは韓国人であることを隠されていたという。大井家は日本人とメキシコ人の夫婦と2人の子どもの4人家族、日本の学校に通う息子へのいじめに悩み、インターナショナルスクールへの転校を考える。 それぞれ異なる境遇にありながら、日本で暮らす彼らだが、彼らの話を聞いてまず感じるのは、彼らが感じる「疎外感」の大きさだ。日本社会において、見た目が少し違ったり、日本語が不得意だというだけで、その社会の一員とは認めてもらえないという疎外感。それは時にいじめにつながり、差別されているという感覚につながり、日本を嫌いになる原因にもなってしまう。 東京など大都市では、「多様なバックグラウンドを持つ人が増えている」と強く感る。そう感じるのは、いわゆる「外国人」という見た目や、中国語や韓国語といった異なる言語を聞いたときだ。それはつまり、外見や言葉によって日本人と外国人を区別し、外国人を「他者」として認識しているということだ。日本で生まれ育ち大人になると、そのような思考回路をいつの間にか持つようになってしまうのかもしれない。 これこそが日本人の「一様」の幻想と「多様化」の現実の間のギャップだ。他者と認識した人に対しては差別意識が生じ、いじめなどの具体的な行動に移ってしまう場合もある。多様性を受け入れる社会というのは、他者の存在を許す社会ではなく、多様な人達を「私たち」に含める社会である。つまり、見た目や言葉の違いにかかわらず、国単位であれば「日本人」であるという考え方を受け入れることを意味する。「ハーフ」の人たちが「疎外感を感じている」ということは私たちの社会が、そのような多様化した社会にはなり得ていないということだ。 もちろん、日本だけがそうなわけではなく、世界中がそうだ。人種のるつぼと言われるアメリカでも排他主義ははびこり、多様性を受け入れない人はたくさんいる。しかし、同時に多様性を受け入れる人もたくさんいるし、社会制度が多様性を受け入れる社会にしようと整えられているのだ(トランプが大統領になるとどうなるかわからないが)。 では、この多様性を受け入れる社会を作るために必要なこととは何なのだろうか。一つの鍵は「集団」にあるように思える。個人のレベルではハーフであろうと在日外国人であろうと、その文化的な差異を乗り越えて人と人という形で普通に平等に付き合えるはずなのに、例えば学校という集団になると「異物」を疎外してしまうということがよくある。学校でそのようなことが、原因を意識しないままに起きてしまうのなら、社会というより大きな集団で同じように「疎外」が生じ、それが「差別」へと発展してしまうのことは想像に難くない。 個人のレベルでは「差異」でしかなかったものが集団になると「区別」になってしまう。本当は個人レベルの差異なんてものはどのような人の間にも存在するはずだが、それが一対多の関係になったり、目に見えて明らかなものであったりしたとき、「区別」や「差別」を生むのかもしれない。この映画はそのことに気づかせてくれる。 その仕組みの顕著な表れが「いじめ」だ。いじめの対象になる子供にも色々あるが、基本的にいじめというのは一対多の関係から生じる。一様な集団がそこから外れた他者をいじめるのだ。その一と多の差異は大きなこともあればとるに足らない小さなもののこともあるが、いずれにしろいじめをする「多」にとってはその差異がいじめる理由になるのだ。このいじめに表れる構造が温存されて社会全体に広がっているのが今の現状である、とヘイトスピーチのニュースなどを見るたびに思う。 しかしやはりそこでも問題になるのは集団なのだ。集団が形成されることで「人対人」であることを忘れてしまい、憎悪や対立が生まれる。それを避けるために重要なのは、「違う」部分よりも「同じ」部分に目を向けていくことではないか。この映画に登場する人たちはみんないい人たちだし、実際の会えば友達にもなれそうにも思える。このような人たちを私たちは差別してきた。なぜそうなってしまったのか。それは、「いい人」と思えるような共感できる部分を無視し、違う部分ばかりに目を向けてしまうからだ。 映画の中で、ふさえさんが「キムチやビビンパはみんな普通に食べているもんだと思っていた」と話をするシーンがある。このシーンを見て思ったのは、誰しもそういう経験はあるということだ。たとえば、子供の頃おやつに何を食べていたか、そのことを話しあうだけで実は「普通ではなかった」と気づくことがある。それは、私たちのそれぞれが当たり前に思っていることが、必ずしも多数にとっての当たり前ではないということを示唆している。それが「差異」だ。そのような取るに足らない差異と、人種や言語といった「大きな」差異を、同じように大したことではないと心から思うことが出来るか、それがいまわたしたちに求められていることだ。 建前でそういうのは簡単だ。でも、この映画を見ると、これまで気づかなかった自分の偏見に気付かされて「はっ」とすることがある。だから「自分が多様化を受け入れる準備が出来ている」と思っている人にもぜひ観てほしい。いじめやヘイトスピーチをしている当事者にももちろん観てほしいが、そのような人たちに声が届くことにはあまり希望が持てないので。 監督の西倉めぐみさんと高木ララさん 現在、Amazon Primeの対象作品なので、プライム会員は無料で観られます。ぜひ↓ 『ハーフ』 2013年/日本/87分 監督・プロデューサー・撮影:西倉めぐみ、高木ララ