最近というかここ数年、「ミニマリスト」という言葉をよく耳にするようになった。ミニマリストは要はほとんど物を持たない人で、テレビの情報番組だとかで、がらんどうの部屋にちゃぶ台が1つあるだけの部屋が映ったりする。そういう映像は「そんなに物がなくて不便じゃないのか」という疑問を視聴者に持たせて、彼らを自分たちとは違う人達とカテゴライズしてエンターテインメント化するものだ。

しかし、ミニマリストとは一体何なのかを考えると、大きく分けて2つの種類があるのではないかと思う。1つは「所有」を嫌う人たち、もう1つは「消費」を嫌う人たちだ。1つ目の所有を嫌う人たちは物を持つのが嫌で使ったらすぐ捨てるという行動が基本になる。他方で消費を嫌う人たちというのは逆で物を捨てるのが嫌だからそもそももの持たないという発想だ。

さて、ここで今回の映画『365日のシンプルライフ』の話になるが、この映画は、主人公のペトリがすべての持ち物を貸し倉庫に預け、1日に1つずつそこからモノを取り出すというチャレンジを1年間やる姿を追ったもの。家具や生活用品だけでなく、服も何もすべて預けるので、最初に登場するペトリは全裸で裸足。そのまま雪のちらつく道に出て、新聞紙で股間を覆って貸し倉庫まで走っていく。では、最初に彼が取り出すものは何か…というもの。

そして、彼が最初に取り出したのはコートだった。彼はコート1枚を身にまとって部屋に帰り、何もない部屋の床でコートにくるまって寝る。そして朝を迎え、「ぐっすり眠れた」という。

この映画のエンターテインメント的な面白さはここまでに全て集約されていると言っていいのだが、このインパクトのある映像で引き込んでおいて、そこから本当に描きたいことを描いていくというのがこの映画の狙いだろう。これだけものがあふれる世界で、1日1つずつしか持つものを選べないとしたら人は何を選ぶのか、普通の生活を送れるようになるまで何日くらいかかるのか、そんな興味にワクワクしながら、自分にも置き換えながら映画を見ることになる。

映画としては、中盤以降は少し拍子抜けで、何日、時には数十日も時間が飛んで、ペトリの生活が描かれていくのだが、その理由の一つは、ペトリがあまりものを取りに行かないことだ。10日目にしてもう「欲しいものがない」と言ってしまうくらいに、ものを持つことへの欲求がなくなっていくのだ。

つまり、彼はミニマリストとして暮らしていけるとここで判断したというわけだ。彼の場合、物を持たないし買わないので所有と消費の両方を拒否していることになるが、それでも人は暮らしていけるわけだ。これによって彼は、ものは持たなければ持たないでなんとかなる。私たちが持っている「ものへの欲望」のほとんどは、この物質主義、大量生産大量消費社会が生み出した幻想にすぎないということを、体を張って証明して見せているわけだ。

映画の方はこの後、人が本当に必要とする「もの」とは何なのかという話になる。それは、人間の本質は物質主義ではないという話で、それはそれで「いい話だ」となるわけで、映画としてはそれでいい。ごく普通の若者がごく普通の悩みを抱えて、それと向き合いながら成長していく話としても面白く見ることができる。

ここで二種類のミニマリストの話に戻ると、所有を拒否するミニマリストと言うのは一見、物質主義を拒否しているように見えるが、「近くにコンビニがあるから冷蔵庫がいらない」というような消費を前提としているので、消費文化から抜け出しているわけではない。他方で、消費を拒否するミニマリストの場合、ある程度のものは持ちながら、それを長く使うという傾向があり、こちらのほうが消費文化からは距離が遠い。しかし、同時にものに対する執着は持っているとも言える。これはどちらがいいかという議論ではないので、それについては棚上げするが、この違いというのは「物を持ちたくない」という発想のもとになった思想の問題だというのは重要なのかもしれない。

この映画の場合、所有も消費も両方拒否しているので話がわかりにくくなってしまっているので、もう1つ『地球にやさしい生活』を取り上げたい。この映画は作家とその家族が、ニューヨークで、1年間新しいものを買わず、なるべくゴミを出さず、食べ物は近郊でとれたものだけにし、最終的には電気も使わないようにしようとしたチャレンジを追ったドキュメンタリーだ。

こちらの作品は、消費を拒否するというシンプルな内容でミニマリストについて捉えやすい。彼らは消費を拒否することで「地球に優しい生活」を送ろうとするわけで、その生活というのは自分たちの近く、つまりローカルで完結する生活だということだ。つまり、消費を拒否するというのは少し飛躍するがグローバル経済を拒否するということになる。

というのも、所有を拒否するミニマリストの場合、買うものについて、自分が暮らしていく上で快適に感じる最小限のものであれば、遠い国からやってきたものでもいいわけで、その中心にあるのは自分という価値基準だ。それに対して消費を拒否する場合、そのものを買うかどうか決める基準はその「もの」にあるように思えるのだ。

このようなことをいうのは、グローバル経済を拒否して地球にやさしい生活を送るということが、これからの世の中には必要だと思うからなわけだけれど、個人的にはそもそもものを持たないミニマリストの生活というのは想像もできない。ほんとうに必要なものは何なのかとは考えるけれど、だからといって必要ではないものを持ってもいいじゃないかと思う。人がなぜ「シンプルな暮らし」に憧れるかを考えると大量消費社会の行き過ぎが原因なのだろうと思うけれど、そこからミニマリストへと行くにはまだまだかなり距離があるわけで、生まれてこの方培ってきた「便利さ」崇拝から抜け出すのは簡単ではない。そうやって揺れ動いてしまうのだ。

こうして「もの」について考えていくと、最初に分類した所有と消費の区別というのも簡単なものではないとも思えてくる。人にとってものとは何なのか。その答えはまだまだ出ないけれど、いろいろな映画を契機に考え続ければ自分なりの答えに少しずつ近づいていくのかもしれない。

『365日のシンプルライフ』
Tavarataivas
2013年,フィンランド,80分
監督・脚本・出演:ペトリ・ルーッカイネン
撮影: ジェシ・ホキネン
音楽: ティモ・ラッシー
『地球にやさしい生活』
No Impact Man
2009年,アメリカ,92分
監督:ローラ・ガバート、ジャスティン・シャイン
出演:コリン・ビーヴァン、ミシェル・コンリン
http://socine.info/wp-content/uploads/2016/11/365.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2016/11/365-300x300.jpgishimuraMovieStorylocalization,minimalist
最近というかここ数年、「ミニマリスト」という言葉をよく耳にするようになった。ミニマリストは要はほとんど物を持たない人で、テレビの情報番組だとかで、がらんどうの部屋にちゃぶ台が1つあるだけの部屋が映ったりする。そういう映像は「そんなに物がなくて不便じゃないのか」という疑問を視聴者に持たせて、彼らを自分たちとは違う人達とカテゴライズしてエンターテインメント化するものだ。 しかし、ミニマリストとは一体何なのかを考えると、大きく分けて2つの種類があるのではないかと思う。1つは「所有」を嫌う人たち、もう1つは「消費」を嫌う人たちだ。1つ目の所有を嫌う人たちは物を持つのが嫌で使ったらすぐ捨てるという行動が基本になる。他方で消費を嫌う人たちというのは逆で物を捨てるのが嫌だからそもそももの持たないという発想だ。 さて、ここで今回の映画『365日のシンプルライフ』の話になるが、この映画は、主人公のペトリがすべての持ち物を貸し倉庫に預け、1日に1つずつそこからモノを取り出すというチャレンジを1年間やる姿を追ったもの。家具や生活用品だけでなく、服も何もすべて預けるので、最初に登場するペトリは全裸で裸足。そのまま雪のちらつく道に出て、新聞紙で股間を覆って貸し倉庫まで走っていく。では、最初に彼が取り出すものは何か…というもの。 そして、彼が最初に取り出したのはコートだった。彼はコート1枚を身にまとって部屋に帰り、何もない部屋の床でコートにくるまって寝る。そして朝を迎え、「ぐっすり眠れた」という。 この映画のエンターテインメント的な面白さはここまでに全て集約されていると言っていいのだが、このインパクトのある映像で引き込んでおいて、そこから本当に描きたいことを描いていくというのがこの映画の狙いだろう。これだけものがあふれる世界で、1日1つずつしか持つものを選べないとしたら人は何を選ぶのか、普通の生活を送れるようになるまで何日くらいかかるのか、そんな興味にワクワクしながら、自分にも置き換えながら映画を見ることになる。 映画としては、中盤以降は少し拍子抜けで、何日、時には数十日も時間が飛んで、ペトリの生活が描かれていくのだが、その理由の一つは、ペトリがあまりものを取りに行かないことだ。10日目にしてもう「欲しいものがない」と言ってしまうくらいに、ものを持つことへの欲求がなくなっていくのだ。 つまり、彼はミニマリストとして暮らしていけるとここで判断したというわけだ。彼の場合、物を持たないし買わないので所有と消費の両方を拒否していることになるが、それでも人は暮らしていけるわけだ。これによって彼は、ものは持たなければ持たないでなんとかなる。私たちが持っている「ものへの欲望」のほとんどは、この物質主義、大量生産大量消費社会が生み出した幻想にすぎないということを、体を張って証明して見せているわけだ。 映画の方はこの後、人が本当に必要とする「もの」とは何なのかという話になる。それは、人間の本質は物質主義ではないという話で、それはそれで「いい話だ」となるわけで、映画としてはそれでいい。ごく普通の若者がごく普通の悩みを抱えて、それと向き合いながら成長していく話としても面白く見ることができる。 ここで二種類のミニマリストの話に戻ると、所有を拒否するミニマリストと言うのは一見、物質主義を拒否しているように見えるが、「近くにコンビニがあるから冷蔵庫がいらない」というような消費を前提としているので、消費文化から抜け出しているわけではない。他方で、消費を拒否するミニマリストの場合、ある程度のものは持ちながら、それを長く使うという傾向があり、こちらのほうが消費文化からは距離が遠い。しかし、同時にものに対する執着は持っているとも言える。これはどちらがいいかという議論ではないので、それについては棚上げするが、この違いというのは「物を持ちたくない」という発想のもとになった思想の問題だというのは重要なのかもしれない。 この映画の場合、所有も消費も両方拒否しているので話がわかりにくくなってしまっているので、もう1つ『地球にやさしい生活』を取り上げたい。この映画は作家とその家族が、ニューヨークで、1年間新しいものを買わず、なるべくゴミを出さず、食べ物は近郊でとれたものだけにし、最終的には電気も使わないようにしようとしたチャレンジを追ったドキュメンタリーだ。 こちらの作品は、消費を拒否するというシンプルな内容でミニマリストについて捉えやすい。彼らは消費を拒否することで「地球に優しい生活」を送ろうとするわけで、その生活というのは自分たちの近く、つまりローカルで完結する生活だということだ。つまり、消費を拒否するというのは少し飛躍するがグローバル経済を拒否するということになる。 というのも、所有を拒否するミニマリストの場合、買うものについて、自分が暮らしていく上で快適に感じる最小限のものであれば、遠い国からやってきたものでもいいわけで、その中心にあるのは自分という価値基準だ。それに対して消費を拒否する場合、そのものを買うかどうか決める基準はその「もの」にあるように思えるのだ。 このようなことをいうのは、グローバル経済を拒否して地球にやさしい生活を送るということが、これからの世の中には必要だと思うからなわけだけれど、個人的にはそもそもものを持たないミニマリストの生活というのは想像もできない。ほんとうに必要なものは何なのかとは考えるけれど、だからといって必要ではないものを持ってもいいじゃないかと思う。人がなぜ「シンプルな暮らし」に憧れるかを考えると大量消費社会の行き過ぎが原因なのだろうと思うけれど、そこからミニマリストへと行くにはまだまだかなり距離があるわけで、生まれてこの方培ってきた「便利さ」崇拝から抜け出すのは簡単ではない。そうやって揺れ動いてしまうのだ。 こうして「もの」について考えていくと、最初に分類した所有と消費の区別というのも簡単なものではないとも思えてくる。人にとってものとは何なのか。その答えはまだまだ出ないけれど、いろいろな映画を契機に考え続ければ自分なりの答えに少しずつ近づいていくのかもしれない。 『365日のシンプルライフ』 Tavarataivas 2013年,フィンランド,80分 監督・脚本・出演:ペトリ・ルーッカイネン 撮影: ジェシ・ホキネン 音楽: ティモ・ラッシー 『地球にやさしい生活』 No Impact Man 2009年,アメリカ,92分 監督:ローラ・ガバート、ジャスティン・シャイン 出演:コリン・ビーヴァン、ミシェル・コンリン